『ラ・ラ・ランド』は「夢は叶ったけれど恋は実らなかった」という切ない感動作として語られることが多い。でも、現実のロサンゼルスでは夢も恋もそう簡単には実らないことを痛いほど知っている人にとっては、むしろ興ざめしながら見る映画らしい。
そんな見方もあるんだなと思った。
私はこれまで、男は男の妄想として、女は女の妄想として作品を受け取るものだと思っていた。けれど、その外側にもっとシニカルな第三の視点があることを、完全に見落としていた。すべては夢、だからこそラ・ラ・ランドというすべてが愉快な夢だった。チャンチャン(終わりの音)⋯なわけだけど、冷めた目で見る時点でそんな陽気なネーミングの映画を見るなよ、とツッコミたい。
何を期待して、この映画を見たんですーー?
マンマ・ミーアを真剣に批判したくて見ますーー?
(まあ、アマプラにないから見たこと無いけど)
ちなみに『グレイテスト・ショーマン』は「やりすぎたポリコレ」という評価を見かけることがある。もっとも、私の場合は「あ、これポリコレの話か」と認識した時点でテンションが下がるので、その評価自体を真面目に検討しているわけでもない。
というか、「ポリコレ」という言葉そのものを、すでに色眼鏡として使っている。Xでも「ポリコレ」と書かれた投稿はだいたい避けて通る。ポリコレをネタにしている時点で見る価値がない、とまで思っている節がある。
もちろん、この駄文もそのポリコレをネタにした類で見る価値のない駄文だ。間違いない。
……というわけで、書くことがなくなったので、さらにぼやいてみる。
以前、「駄文を読んで感動するわけがないし、感銘を受けるわけもない」と言っていた人がいた。
なんで、この人は俺のブログを知っているんだろう?(自意識過剰杉)
そのたびに私は、なぜか『キングダム』の汗明(かんめい)は本当に強かったのだろうか、と考えてしまう。結局は蒙武のかませ役として退場しただけのキャラランキングの10位以下だけど100位ぐらいにはいれてあげたい微妙なやつだけど、妙に印象に残っている。
……それはさておき。
そもそも駄文に感銘を求める人なんているんだな、と思うことがある。「駄文です」と言いながらWebに公開するのも、案外危険な時代なのかもしれない。
何もかも批判の対象になる時代だ。
もちろん、「すべてが批判対象だ」と言っている本人もまた批判対象になる。それくらいは分かっている。それでも、理不尽だなあと感じることはある。
まあ、そんなことは人生で一度や二度ではないので、今さら驚きもしないのだけれど。
最近は「ダメだと分かっているのにやってしまう」ということについて、ぼんやり哲学している。
もしこれさえなければ、自分の人生はもっと幸せだったのではないか――そんな妄想をしている時点で、たぶん話はもっとややこしい。

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