結論から言えば、無我の境地に逝け。
若い頃は「俺が俺が」「自分が自分が」になる。生命力って、そういうものだ。
人は利己的なもので、それが正常なんだと思う。他人のために動ける人がいたら、それは徳が高いのかもしれない。
でも、いつしか「俺が俺が」はみっともない気がしてきて、「周りのため」とか「誰かのため」とかに動くほうが、かっこいいと思うようになる。
「あいつ、誰かのために怒られに行ったらしい。かっこいい。」
「あいつ、女のために殴られに行った。イカしてる。」
自分を殺してでも動く。無私の精神って、どこか格好よく見える。
でも、不思議なことに、若い頃に年寄りが「私は人のために生きています」みたいなアピールをしているのを見ると、どうもイケてない。
あれ、なんでだろう。
どっちも同じことを言っているはずなのに、言語化すると急にダサくなる。
言わずに行動で示すのがかっこいいのかな、とも思う。でも、言ってからちゃんと行動する人が格好いい場合もある。
結局、年を取ると、自分のためだけに生きるのが面倒でしんどくなって、他人のためとか社会のためとかに考えがシフトしていく。
それ自体は悪いことじゃない。むしろ成熟なのかもしれない。
でも、それを自分で言ったらダサい。
人が客観的に「あの人は人のために生きている」と言うならいい。でも、自分で言うなよ、なんかダサいよ。
……わかる?
たぶん、「かっこいいところを見せよう」という作為が見えた瞬間にダメなんだろう。
結局、やっていることは同じでも、心の中でどう処理しているかの違いなのかもしれない。
だから、「みっともなさ」が見えたら、それは全部「老い」なんだと思う。
自戒を込めて。
…リチャード・ドーキンスの『利己的な遺伝子』じゃないけど、みんな利己的に生きている!でいいと思うんですよね。それが他人にどう見せるのか?というプレゼンテーションに過ぎないとどこかで思っている。それ言うのもどうかと思うけど👼

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