猫のひたいのような土地がある。
「この土地と建物を守っていくのが我が家の伝統である」と仏教徒の祖父が言っていたそうだ。軽々しく”伝統”を作りだしたものだ。
…でも、土地はともかく”建物”って物質だから、いつかは脆く崩れ去るものなのだが。孫が複数人いればきれいに分けられるはずもない。
…まあ、誰かが引き継いで新しく建て直せばいいってことなのかもしれませんが、仏教でいう「諸行無常(あらゆるものは変化していく)」という思想に反している気がしないでもない。
それはともかくも、日本の仏教徒の99%は大乗仏教徒だが、大乗仏教では「死んだらみんな仏になる」という考え方がある。
仏陀は人間の完成形なわけだが……あれ? 完成したら、ずっとその状態ってこと?
その「完成」という性質もまた、諸行無常のルールに反しているのではないだろうか。
…などとふと思った。
困ったときの神頼みならぬChatGPTに聞いたら「完成した人格と変化しない物体は違う」と、もっともらしいことを言われたが詭弁では。
確かに一理あるのだが、この点は大乗非仏説でも議論になる論点の一つだそうで、「やっぱりおかしいよね」という話にもなってくる。
他方、原始仏教/上座部仏教では釈迦の完成形という意味の仏陀ですら死ぬし、身体は滅びることを示している。
初期仏教の考えでは、バラモン教のようにこの世へ転生することもなく諸行無常というルールの矛盾に抵触しない。
…ところが大乗仏教では、「衆生を救うために仏がこの世へ出現する」という考え方が認められるようになった。
こうした経緯を踏まえると、「これは矛盾しているように感じる」というよりも、「大乗非仏説に至らざるを得ない論点の一つだ」と言えそうだ。
この文章のタイトル/問題提起「仏陀という人の完成性は諸行無常の矛盾では?」には限定条件にするための主語が不足していることに気がついた…より正確には「大乗仏教において仏陀という人の完成性は諸行無常の矛盾ではないだろうか?」になるだろう。
そして、その解答は「はい、矛盾しています」ということになるだろう。
そもそも仏教には、一乗思想と三乗思想というものがあり、どちらも大乗仏教の思想に過ぎず仏陀と一言に言っても初期の仏教では釈尊の完成形とは区別されていたようだが、他の修行者の完成形である阿羅漢(あらかん)は声聞・縁覚・菩薩という3種に区別されるというのが三乗思想であり、法華経は一乗という仏になるという統一された見解を示すという理由(わけ)になる。
…というわけで哲学的という大げさな表現を使わずとも、(自分の頭で無駄に)考えてみると矛盾にぶつかるわけで、寺の和尚に尋ねたら無駄なことを考えずに信心しなさい、とか諌められるのがオチなのだが、考えずにはいられなかったりする。
というわけで必然的に大乗非仏説に考えざるをえなくなってくる。
人生の暇は尽きない。


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