西洋哲学では、「考えること」は奴隷状態から抜け出すための行為として肯定的に語られることが多い。少なくとも大学や研究機関では、単なる疑問ではなく、考えて答えを導き出すプロセスそのものに価値があるとされている。
しかし、逆説的に言えば、それは「答えのない問いに答えなければならない」という要請があるからこそではないだろうか。もし最初から答えが決まっているなら、そもそも考える必要はない。
私たちは「考えること」を無条件に肯定しがちだが、「考えなくても済むこと」は、それはそれで考えなくてよいことである。
あらゆる思考は疑問から始まる。しかし、その「考えること自体に価値がある」という見方もまた、思考する者が抱えざるを得ないバイアスに過ぎないのではないか。
もしそうだとすれば、「主人と奴隷」という対立図式もまた幻想の一種なのかもしれない。
だから私は、「疑問を持つこと」や「考えること」が、なぜこれほど積極的に評価されるのかを逆に疑問に思い、そのことについて考え続けてきた。
だが、一向に埒が明かない。この疑問というか悩みを誰かに理解してもらえた試しもなく、そのうち疑問として意識することすらなくなってしまった。
それでも、よくよく思い返してみると、この問いこそが、自分の思考がループし続ける最大の原因であり、いまだに最も分からないことなのかもしれない。
私たちは考え続けるしかない。
しかし、考え続けることそのものを肯定し始めたら、それは哲学ではなく、「哲学」という名の宗教になってしまう。だからこそ、哲学をし続けるしかない。
この違いを取り違える人をよく見かける。
「考えることは善である」という信念を持つことと、「考えることをやめられないから考え続ける」ことは、紙一重のようでいて、まったく別の話なのだ。
むしろ、考えることや哲学を無条件に肯定するくらいなら、いっそのこと「考えることの肯定」そのものをやめてしまったほうが、まだ哲学的なのではないかとすら思う。
「カッコいい人は、カッコつけていないからこそカッコいい。」
……みたいな逆説っぽいことばかり言っていてすみません。まあ、言いたいことはそういうことです。
(あ、別に「俺はカッコいい」と言いたいわけではないです。それを言った瞬間に、カッコつけていることになりますから。)
※自分の過去の文章を読んでいたら「考えることは大切だ」みたいな事を何度も軽々しく言っているのだが、こいつバカなのではないか?と思ってそれを打ち消すために書いた。本音はこっちなんだよな。誤解を畏れずに言えば「考えないことのほうが素晴らしい」はずなのに「考えずにはいられない」である。

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