戯言。地雷系・量産型は、定義する側から定義される側の言葉になった

言の葉

日々の戯れ言です。

政治屋”与党”の汚職が一斉にメディアで取り上げられ、なぜか政治家をやめた田中真紀子がそれを批判する。いずれにしても視聴者の対象はわかりやすく老人。官房長官がパーティ券で裏金つくりの内容についてはあまり興味がない。それよりもメディアの表現技法が気になる。改憲勢力が人気のない岸田政権を排除したいのだろうか。くだらない社会のニュースのもとにある社会のなかで、1つ1つくだらなくない人生がたくさん横たわっているはずなのに、ぼくらはくだらないことばかり見ることになる。…昭和世代のまねをして”ぼくら”とか言ってみたがやっぱり”ぞわっ”とする。集団的であることに慣れないなと私自身思いつつ、心の底から向いてないと思い直す。集団嫌悪症を抑えようとすると、おかしな副作用が現れてくる気がする。

Xの投稿で、三島由紀夫のふんどし写真に「東大に行ってまでやることがグラビアか」と添えられていた。ミス東大の神谷明采(かみやあさ)って人へのSNSでのつっこみらしい。どうでもいい話に三島由紀夫が使われていて、微妙な気持ちになっただけであるが。人間いい年齢になると死ぬことぐらいしか興味なくなってくるわけで、別に信奉しているつもりはないなれど、御本尊に不敬なことするな(ネタにつかっていい画像じゃねえんだよ)と思ったのです。鈴木邦彦の『遺恨』を読んでいるが、それによれば三島由紀夫は神なのだ。自分はリベラルのつもりだが、左翼革命のために死ぬきにはなれないとなると、道すがら民族主義に至らざるをえないのかもしれない。三島由紀夫だって考え方はリベラルそのものだろ。詳しくはしらんけど。

歯医者で歯の掃除をすると血だらけになる。ふつうはならないらしい。甘いものが好きだからしょうがないのかもしれない。甘いものを控えようと思ったが、それがないことには楽しみも少なくなる。歯がなくなっていくリスクにさらされている感が募る。IPMPという成分が入った歯磨き粉をすすめられた。歯には無頓着であったが、すこしは気にしようかという気分になった。というかただたんに痛いのが嫌。痛みをなくしたいという至極単純かつ消極的な理由でケアをする。抜歯をして自分には歯が生えていることを自覚する。痛みを感じて生きていることを実感する。でも困ったことに年を取ると痛みからも鈍感になってきている気がします。

最近とくに意味もなくイライラすることがある。いやまえからイライラしていたのかもしれないけれど、あまり自覚がなかったのかもしれない。朝と夕方に特に意味もなくイライラする。変な感じ。そういえば地雷系とか量産型のファッションやらスタイルっていうのは、あくまで男目線の解釈なのに女性の認識としてー、ジャンルとしてモード(形態)が確立しているんですよね。いつの間にか定義する側の言葉が定義される側の言葉になることは、探せばいくらでもあるわけですけど、不思議種。あるていどは自覚があるのに、それに憧憬するって心情が見ていて痛々しくなる、っていうかね。

言の葉
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