結論から言うと、あるっちゃあるんだけど、「なんにもない」で片付けてもしょうがないのではないか、ということを反省したい。
成果が出ない仕事をなくそうと躍起になっていると、他人のあれこれにもケチをつけたくなる。
しかし、「成果が出ない=意味がない」と変換して、自分だけの価値基準で切り捨ててしまっていいのだろうか。
「成果のある仕事ばかり追い求めていたら家族崩壊しました」みたいな、人生で大切なものの話をしたいわけではない。かといって、無駄な浪費を勧めたいわけでもない。
むしろ、とあるお金のかかる行為について、「それにも意味はあるのではないか」と肯定的に捉えることはできないだろうか。
……という、人に説明しづらい前提を踏まえたうえで話をしなければならない。
もっと具体的に言えば、「どんどんお金をかけて学んでいい」。それが自分の学びになっているなら、それでいいんじゃないか、という話だ。
でも、多くの人は「理解して、自分の血肉にして、社会に役立てること」を学びだと思っている。そういう人は、仕事に役立たない学習をしづらいメンタリティなのかもしれない。
四十も過ぎると人によるけれど、今学習していることは仕事で成果を出すためというより、自分のほころびをどうにか軌道修正するライフワークみたいなものになる。少なくとも私はそうで、しかも、そのライフワークすら怠っている。本末転倒。
年を取ると損切りが早くなる。でも、それは合理的だからというより、自分が耐えられないだけなのかもしれない。本当は意味があることまで切ってしまっているのかもしれない。忍耐不足。
休暇と無駄な時間は区別しよう、という。でも若い人は、その二つが混じっている。それでいいじゃないか。
それが若さというものだ。
逆に、それができなくなって、何でもかんでも自分の価値基準で「これは必要」「これは不要」と選別しないと落ち着かなくなる。それが分別のついた老人ということなのかもしれない。
だからこそ、そういう選別をしなくていい時間は、案外特別なのだろう。
「もう、好きにして!」
そう思える時間を持ちたい。年寄りにならないためにも。
浪費も、散財も、年を取って振り返れば「全部無駄だったな」と思うことはあるだろう。でも、そのとき、その瞬間に意味があったのなら、それでいいじゃないか。今何もなくてもそれでいい。
…自分には、まだそういう精神が足りない。
だから少しずつ、「そのとき意味があったなら、それでいい」と思えるメンタルを身につけたい。
……それが身につけるものなのかどうかは、さておき。


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