國分功一郎の『暇と退屈の倫理学』を読んだ。いろいろな哲学者を引用して「これはこの哲学者の思い込みだね」みたいな指摘をされているが、本人も結構な思い込みであれこれを引用しているところがあって、一般化できないよねと感じるところがちらほらあって、読むに絶えない部分が多かった。今まで直感的に國分功一郎を避けていた理由を見つけては「やっぱりね」って感じだったが、まあ得るものも多くてとにかく読みやすかった。ハイデガーの「第二形式の退屈」が読者がとりあげたかった話だと勝手に結論づけるが、これって頭のいい人固有の問題じゃないかな?としか思えなかった。成田悠輔が暇と退屈を埋めるために椎名林檎をぺろりんちょしに向かう様子が思い浮かぶ。呑気なものだ。まあ、それはさておき、暇は客観的なもので退屈は主観的なものであるらしい。私は暇はあっても退屈ではないと思っていたが、暇はなくてもよくよく考えると退屈らしい、ということになるらしい。いずれにしてもこの暇と退屈を埋めるにはどうしたらいいのかと考えてみた…というとおおげさだが、結論は出ている。
この前にある人と話していたら「老後はゲームで時間を潰そうと思っている」と言っていた人がいた。これは完全に同意だ、と思った。ゲームは暇をつぶし退屈を凌ぐ低コストかつ最適な選択肢だと思う。若い時、大人から、テレビゲームは自堕落な時間泥棒だと言われてそう思い込んでいた。今考えると、もっと若い時にいろんなゲームソフトをやっておけばよかったなと思う。1つのゲームをやり込むことにあまり価値を感じないが、色んなゲームをやることで体系的にその進化が見渡せたりすると小気味いいというか。若い時にもっと旅行に行っておけばよかったと思う人はいるが、それが渡しの場合はゲームに置き換わったというわけだ。程度が低いと言われるかもしれないが、わりと本気でそう思う。
私自身は⋯勉強をしないで、周囲の人との関係を経って、ゲームなんかやったらダメな人になると思い込んでいたのだが、実はそれは正しくないのではないか?とさえ思っている。まあ、言うて私は周囲の人との関係も大切にできなければ、勉強よりゲームを優先したほうではあるが、中途半端だ。もっと徹底してゲームしておいたら⋯まあ、大変な今以上にヤバい人格と人生になっていた可能性もあるけれど、ゲームについての世界観というか認識と知識の広さの広がりは今以上だったし、それは誰にも評価されないことだけど、でもそれで十分に「幸せ」だったんじゃないかな?とさえ思ったりする。
ドラクエシリーズは1-8までやったが、ファイナルファンタジーの初期作品はやらなかった。7-10まではやったが人に借りたせいであまり思い入れはない。この時は気づいていなかったが、やはり自分の意志でゲームをやるということが大事なのだ。じゃあ今になってFF5やFF6をやったら楽しいか?というと楽しいと言えば楽しいが、あまり記憶には残らない。その時のシーンはおとなになってから解釈したが、それをFF好きの人と比べると理解はできても当時の面白さまでは心のなかで再現することは不可能である。再現できればそれがいいと言う問題ではないかもしれないが、再現したかったらやはり子どもの時にFF5や6をスーファミでプレイしておくべきだったのだ。例えば、テイルズシリーズとか、ペルソナシリーズとか、ポケモンでも、モンハンでも、なんでもいいけどそれがたとえ惰性もあったかもしれないが、シリーズを書い続けてとりあえずやっている人っているけど、それはそれで貴重な時間を過ごしているのだと思う。
中途半端にやるよりも、徹底して選択したほうが、その選択のほうが正しいと後で思えるのならば、それは対象がゲームでもいいんじゃない?と思うと、安易に誰かがやっている一般的にダメな行為を完全否定するのは難しいんじゃないだろうか。
ゲームは擬似的かつ主観的な体験で、それ以外のものを優先すべきみたいなことを言う人がいる。藤井聡が「ぼくもゲームが好きだけど、これにひたってたらダメになる」みたいに言うけど、学問はともかく老後のリクリエーションなんて本人が楽しめていればいいものだし、それが文学になろうがスポーツになろうが、ゲームと大差ない。ジル・ドゥルーズは映画と絵画が好きだったが、それもまた創作なわけでゲームとなにが違うのだろう。『暇と退屈の倫理学』では動物になる瞬間を見つけるために映画を見るらしい。そこまで、意図して映画をだらだら見るのを肯定しなくても(汗)
こんな話しても「本人が良ければそれでいいんじゃない」いがいの回答をする人はなかなかいないだろうが、でも別にそういう話を私はしたいわけではない。ということを求めて他人と人は関わりたいものではないのか(面倒くさい人かも)。

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