戯言|共無産主義と労働無価値説

徒然草2.0

AIロボがすべてを生産してくれる世の中では、われわれ人間の労働は、すべてとは言わないが、ほとんど無価値だ。

正確には、芸能や芸術、スポーツ、研究などで突出した才能を持つ一部の人には価値がある。しかし、それ以外の大多数の人間の価値はゼロ。統計的にいえば平均値はゼロではないが、中央値はゼロ。100人いたとしても、価値を生み出せるのはせいぜい2人程度で、残り98人は何も生み出していないくらい偏っている。

むしろAIやロボットに働いてもらうために、われわれが消費をすることこそが、人間に残された「労働」なのではないか、と最近はよく思う。

AIが米を作り、ロボットが家を建て、ロボットが料理をして、掃除までしてくれる。そうなると人間は消費をするほかにない。これが唯一残されたわれわれの労働なのかもしれない。

かつてマルクスが夢想した共産主義社会というのは、労働から解放されて、必要に応じて財を受け取る社会だった。ところがAI時代になってみると、それが誤っていたことに気がつく。むしろまったくの逆だった。もともと、われわれは「何も生み出していなかった」だ。

会社でパソコンに向かってExcelをいじったり、会議をしたり、メールを書いたりしている。もちろん社会を維持するためにはは必要だったが、物そのものを作っていない。そんな仕事はAIというものが生まれて、すぐに代替されていった。

家庭に帰れば、洗濯機や食洗機や掃除機が働いてくれるし、ロボットが料理をしてくれる。出産も人口子宮のほうが安全で確実で、人間が時間をかけて産む必要がなくなり、一部の人の趣味になっている。

教育もAIが「あなたは数学の才能があります」「あなたはスポーツです」「あなたは芸術です」と判定して、その才能を伸ばすように教育してくれるので、人が出る幕はない。

昔の「能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」という言葉も、なんだか妙なことになってくる。正しくは、「無能力であるにもかかわらず、必要に応じて受け取る」だろう。正確には「無能力」というより、人間が生産能力を持つ必要そのものがなくなってしまった、ということなのだが。

資本主義の果てに現れるのは共産主義ではなく、「共無産主義」だった。

誰も何も生産していないのに、なぜか生活は成立している。正確には、人間以外のものが全部生産している。人間に残されるのは、消費と、せいぜい「私はこれが好きだ」と言うことくらいだ。労働の価値がなくなった世界で残ったのは、「趣味」しかない。

せいぜい人間は、AIロボットに「ありがとう」と言いながら、そのロボットが作ったものを一生懸命消費する。これが人類の究極形態でいいのかという疑問はあるが、誰も何もできないまま、AIに無目的に飼育されている。

「能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」なんてストイックなんだろう…働くにせよ受け取るにせよストイシズムの極みだ、だいたいそんなことを資本主義の社会で本当に実現したら、まっさきに自分には能力がなくてやがて死滅するしか他にないことが想像できなかったのだろうか。

共無産主義と労働無価値説なんてくだらいことを考えている働きたくない人間など、さっさと淘汰されてしかるべきだったのに、そういう妄想ができるくらいに自由主義の資本主義社会の労働者は…ゆるくふわふわ働いていたに違いないと、このブログ記事が掘り起こされて揶揄されるに違いない👼

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