美男子と美女が向かい合っている。男には美女が欲望を満たすビールの瓶に見える。女は美男子だと思っていたものがカエルだと気づく。かくしてそこには、美男子と美女ではなく、ビール瓶とカエルが抱き合っているだけだ。
…みたいな映像があるらしいのだが、探しても見当たらない。
最近、このブログのある記事が読まれてアクセスが増えていると思ったら、駐車場に投資するサービスを提供するカーパークレントという会社が倒産したそうで、帝国データバンクにも載っているからであるらしい。
いまさらだが、カーパークレントって「カーパー・クレント」だと思っていた。でも、よく考えたら「カー・パーク・レント」=自動車・駐車場・賃借で、そのまんまだな……。
こういう投資商品を作る起業家の心理を、世間一般の人って全然わかっていなくて、「誠実そうだった」とか「しっかりしてそうだった」とか、よくわからない理由で評価する人がいる。
そういう問題じゃないのだが、「そういう問題じゃない」ということを、その人たちに説明するのは難しい。
理屈じゃないところで信じたものは、理屈では剥がせないということなのだろう。
……まあ、人を見るということや、人を見て好きになるということ自体は非合理だけれど、ビジネスでは大事なんだろう。顔がいいだけじゃないし、言い得ぬ魅力みたいなものがないといけない。
ただ、それだけでもだめで、自分の商売を心底信じていることが、人を惹きつけるうえではたぶん重要なのだと思う。
それを「自信」という人もいる。根拠なき自信とか。
それが空元気でも、嘘でも、本当になりうる。練りに練って、本人自身が思い込み、「これはお客さんの課題解決になるんだ」というパッションを持つ。
それだけで、中身がないものが商品になる。
中身がなくても、人が集まればそれだけで価値が出たりもする。
人が集まれば金も集まる。熱量も増す。情報も行き交う。参加する動機も生まれる。それらをコントロールできれば、相乗効果でどんどん大きくなる。
そうした「人と、ものと、金を引きつける重力」を持っていれば、何でもできる。
そういうカリスマーを持っている人が、嫉妬とかジェラシーとかいうほど、何か負の感情を持っているわけではないのだが、ある意味では羨ましいとよく思う。
宗教家になるにはカリスマというステータスが必要だが、自分にはどうもそういうものがない。しかも、そういうものって客観的に身につけられるものでもない気がする。
そのために誰かに何かをして差し上げる、というのもおかしい。
誰かのために何かをして差し上げても、それでカリスマ的な条件を満たしているかと言えば、全然違うわけで。
結局、おのれの道を進むしかなくて、結果として人が集まればいいけど、まあ集まらなくてもいいや、という感じになる。
人を集めたいのに集まらない人によくわからないアドバイザーみたいな人が、なんやかんや言ってくる。軍師みたいなのが一番むかつく。
私に文句を言うのは全然いいのだけど、ある程度実績のある人に「もっとここはああしたほうがいい」とか言うのは大きなお世話で、そんなら自分が中心になってやったらどう?と思ってしまう。
そう言うと「自分はそういうタマじゃない」と言って逃げ出す。
「組織を良くするためには批判的な意見も必要」などとうそぶいて、自分の要求を通したいだけで、あー嫌だ。
まあ、自分も批判精神は大切だと思っている質ではあるけど、最近は「なるようにしかならないから、みんな己の道を突き進め!」という感じで、面と向かって批判するのは避けがちだ。
人は、人に言われて行動を改めない。
人が離れて、一人で考えて、それで独自の道を作り上げるものだと思う。
ころころと付き合う人間が変わるぐらいが、自他関係なく面白いのではないか。
人と人が仲良くあることはプロセスであって、その離反を含めた出来事が人と人を結びつける現代において唯一のと言ってもいい共同性を育む「物語」を作り出すわけで、物語のために人と人は出会うのであって、人と人が仲良くなるあることはプロセスにすぎないと思う。
…ところで友だちになりませんか?
40か50ぐらいの中年男性が、己の欲望の暴走でおかしな事件を起こすニュースを見ると、不謹慎ながら、極めて他人事として「元気だな」とか思ってしまう。
被害者に目がいかないという意味ではない。
事件を見て、自分も事件を起こす可能性があるのだろうか?と、若い頃は妄想というか自問自答していた。
でも今は、そんな元気がそもそもない。
一体どうして?という疑問より、「そんな元気があるのか」という疑問しかない。
事件性のある性質を持つ人を定義して、元気を奪う手術を施せばいいのでは?と思う。
人権団体に怒られる発想だが、秩序を優先するなら、「改革」という政治思想は、そういう方向性であるべきなのではないか。
ペットは去勢するのに、人間は去勢されないなんて、自然に対する不平等ではないか…まあ、「不平等」の使い方が間違っているかもしれないが。
尊厳死としての自死と殺処分の間には自然死というものがるはずだ…という理論を考えたいが考えたところでどうするという気しかしない。


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