バトルロワイヤル風の首輪型スマートウォッチないかな⋯あの爆弾見たいな仰々しいやつ。(ぐぐってみたら、そこまで仰々しいデザインじゃなかった。首にでっかい爆弾つけられた囚人キャラクタかなにかにいたと思うのだけど⋯)
それで首周りの動脈や静脈や神経からセンサーで睡眠分析、正確な健康情報、温度モニタリングをしてくれる。
⋯その情報をサーバに動機して、自分ーーというか、その個体の平均余命をゼロコンマゼロゼロ単位でをの一刻一刻をカウントダウンしてくれる。
ハイデガーは死を自覚して生きることと言ったが、そうしてもう自分は死に続けている状態にあることを自覚して生きることが本来的な態度ではないか。
まあ、自覚したところで、それが充実した生き方とも言えないんじゃないのかな?と思うが。その個体の生命が危うい時に地震速報アラートのようにけたたましい警告音を出せば、助かる命がより助かる可能性を高められるのかもしれないが、そんなふうに余命が可視化された社会もなぜか気持ち悪い気がする。それはなぜなのか?
そういえば、橘玲がこんなことを書いている。
「日本では残念なことに、いまだに「思想」というと孔子や仏陀やプラトン、カントやマルクス、あるいは1980年代に流行したポストモダンのフランス思想のことだと思われているが、科学とテクノロジーの水準が指数関数的(エクスポネンシャル)に高度化したことで、これらはすべて過去の遺物になった(進化論を無視して人間や社会を語ることになんの意味があるのか)。その結果、いまや世界を変える思想はリバタリアニズムだけになっている。」『テクノ・リバタリアン』(橘玲)
はー、ここまで言い切るか⋯。思想の業界を自らで完全に線引しちゃったね。
まあ、言うてしまえばたしかに思想の有意味と無意味というか価値を限定すれば、とりあえず自分に外部が多大な影響を与える可能性のあるものと言えば、デジタル的な支配圧力になるに違いないし、私たちはそうして作られた共同体的な価値観に後付で合わせるより他に生き方を選択できなくなっている。
人間のニーズがアルゴリズムによって抽出される段階にはなく、人生がアルゴリズムにより左右されうる。
ウガンダではビクトリア湖に大量発生した蚊(モスキート)を鍋で集めてハンバーグ型にして火を通して食料にするそうです。
⋯その光景を見た時、あまりにもセンセーショナルな雰囲気で「これが本当のモスバーガー」なんて紹介されていたもの、またフェイク動画かーと、思ったが本当にそういうことをされているようです。
本当かどうかわかりませんが、高タンパクな食事で味もそこまで味が悪いわけではないそうです。食べてみたいと思いませんが、虫を食べることは日本にもそういう文化があるし忌諱するものでもないのかもしれません。
『科学的に正しい』ということを考えている。千葉聡という人かリー・マッキンタイアという人がストレートにそのネタをあつかっている。
これまで知らなかったのだが、科学というものは、歴史的なプロセスを経て現代にいたり、カール・ポパーの反証可能性やトーマス・クーンのパラダイム論でおおよその説明がつけられている。と思っていた⋯それはそうなのだが、実際のところはその共同体に備わった妥当なシステムに過ぎないそうだ。
例えば、反証可能性があるから科学だとも言い切れず、かといって科学的であるからといって証明できるわけでもないそうだ。再現性と反証可能性がおおむねそろっていれば疑似科学は見分けられるといい切れるほど容易くはないらしい。

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