文筆家の池田晶子は日常の言葉で哲学するということにこだわっていた、というかその手のエッセイで小銭を稼いでいたので、小銭を稼げはしないが自分もそうしようと思っていた時期もあったのだが、あえて哲学用語を誤用に限りなく近くてもいいから、その都度に補助を入れながら印象したほうがいいのではないか?と発想を切り替えて多用していることにする。そうしないとSEO的にひっかからないつー、ただのWeb2.0的な理由でそうしている。
「どしがたい」という言葉がある。漢字だと「度し難い」になるそうだ。度だから基準がないみたいな意味かな?理解できないみたいな意味かな?と思ったが、そもそも意味が違う。正しくは「救えない」という意味だ。度は済度(さいど)は仏教用語で救うこと(彼岸に導くこと)を意味する。それが困難だから度し難い=救えないという意味になるそうだ。『メイド・イン・アビス』でも度々目にする言葉だ。誰が何回この言葉を使ったかメモしていたが、どっかにいった。オーゼンとリコかレグが言っていた気がする。まさにメイド・イン・アビスは、ある意味で救えない人たち、その救えないをも飲み込むアビスの話ではあるけど、彼らは仏教徒じゃないのに仏教由来の言葉を使用するのか?理解できない。ワイルドアームズ2のブラッドも「南無三ッ!」とか言うけどこいつも仏教徒なのか。思わず南無三宝由来の言葉が出るって絶対信者よね。それ以来、こいつ絶対に仏教徒じゃないやろ、ってやつが仏教由来用語を使うのに敏感になっている。
スピノザは『エチカ』の中で「コナトゥス」という概念を論じているそうだ。一般には「努力」や「自己保存への衝動」と訳されることが多いようだ。スピノザによれば、あらゆるものは自らの存在を維持しようとする性質を持つそうで、この存在を保とうとする力こそがコナトゥスである。考えてみれば、私たちもまた「私のままでありたい」と無意識のうちに願っているところがある。ある種の執着や煩悩がそうさせているようにも思えるが、その力があるからこそ私は私として存在し続けられるのかもしれない。もしその力が失われれば、身体を構成するものはバラバラになり、生命は維持できなくなる。そう考えると、死とはコナトゥスがもはや働かなくなった状態だと言えるのかもしれない。コナトゥスはニーチェの力への意志に似ている。
仏教ではコナトゥスが無くなることが彼岸へ行くことを意味するのかもしれないが、彼岸はあくまで此岸の対義語で必ず死がともなうのか?については議論の余地があると思っている。もうすこしシンプルに言えば「悟ること」と「死ぬこと」は違うし「殺すこと」と「彼岸にいく」のは区別されるが、この辺りを一緒くたにし始める人がとくチベット仏教関連の人たちにいなくもない。ポワの思想的な⋯。そういえば日本にテーラーワーダ仏教=上座部仏教の人ってたまに見かけるんだよな。ちょっと興味がある。インドにいけるのかな?(絶対に違う)少なくともガンジーっぽいコスプレはしたい。


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