『暇と退屈の倫理学』を読むこと自体は、正直かなり暇で退屈だった。それでも、「本来性なき疎外」という考え方だけは、細かい定義や厳密な用法はさておき、いろいろな場面で思い出す概念だった。
というより、自分が普段「人間って矛盾した生き物だな」と感じるような出来事の多くは、「本来性なき疎外」という視点から別の形で説明できるのではないかと思っている。
例えば、「仕事は好きなことをすればいい」とよく言われる。でも、本当に好きなことをずっと好きでいられる保証はないし、好きなことを続けることが自分にとって常に最善とも限らない。そう考えると、「自分の本来の姿」を見つければ問題が解決する、という発想そのものが、「本来性なき疎外」という考え方に照らすと疑わしく見えてくる。
一方で、いくら好きなことを仕事にしていても、経済的に困窮するようでは個人的にはどうかと思う。だからといって、マルクス的な意味で疎外を感じるような労働環境もまたつらい。いくら給料が良くても、ストレスで心身を壊してしまっては本末転倒だ。(もちろん、マルクスの疎外論は本来そういう話ではない、という指摘はあるだろうが、ここでは深入りしない。)
住む場所についても同じようなことを考える。
「自然の多いところに住みたい。それが本来自分の望んでいた暮らしなのではないか」と思うことはある。しかし、実際に田舎へ移住したら本当に幸せなのだろうか。交通の不便さや地域ならではの付き合い、虫が口や服の中に飛び込んでくるような環境など住みたくないな…とか、現実にはいろいろあるだろう(今は初夏だが都心でもカナブン顔面ぶちあたって服の中に入り込みブンブンいってなかなか出せず悶えたので、ちょいと木々があれば都心だって虫は居るっちゃ居る。)
そう考えると、結局は交通の便を優先して都心の狭い住居に住み続けている自分を、「矛盾している」と表現するより、「自然の中で暮らすことこそ本来の自分だ」という考え自体が、本来性なき疎外という発想で見直せるのではないか、という気がする。
では、もし仕事や家族といった制約が一切なくなったら、自分は本当にど田舎へ移住するのだろうか。たぶん、しない気がする。せいぜい「ほどほどにのどかな場所に住みたい」と思う程度ではないだろうか。結局は、実際にそういう状況になってみないと分からない。本来性なき疎外感を感じて「ここではないどこかへ」を思い描いてしまうならそれこそ執着の二次的欲求じゃあないか?とか考えており、そういう考えは別の不快感/ストレスが要因になっていて、と言い出すときりがないのでこのへんで辞めておく、が。(話を戻すと)
むしろ、自分は適度に都会にいて、ときどき刺激的で毒々しい出来事に触れながら暮らすくらいが、案外ちょうどいいのかもしれない。とも最近は思うようにしている。結局は幸せは自分の心次第。めずらしく月並みな結論。

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