「すべての生きとし生けるものが、死んだ時にたどり着く場所です」そんな看板が掲げられていて、そのまま大広間へ通された。
「中陰(ちゅういん)ホール」とか、「冥土(めいど)行き」といった文字も見えた気がするが、詳しいことはよく分からない。
まあ、ひとつだけ確かなことがある。
――どうやら私は死んだらしい。
小学校の体育館に初めて入った時のような感覚だった。果てが見えないほど広い空間で、ただ待たされている。
死ぬ直前、誰かに何かを渡されたような気がする。けれど、それが何だったのかはもう思い出せない。
しばらくすると、そばで誰かがふと言ったような気がした。
「地獄の本当の奥底の深さっていうものは、この広さの比じゃねえ」
誰の声だったのかは分からない。ただ、それだけが妙に印象に残っていた。すでに先客がいるようだ。それらの生命体だったものが、思い思いの場所にたたずみ、ただ静かにそこにいるようだ。数え切れないほどの存在がいる。
人間もいれば、人間でないものもいる。
犬、猫、カナブン、ダンゴムシ。でもセンチュウやミジンコやシアノバクテリアはいないのか、と問われると、それもよく分からない。たぶん、そういうもはいなかった。それらには魂がないのか?そう聞かれても答えようがない。
そもそも、なぜそれが分かるのかと聞かれても困る。
私たちが、人間というものがなぜ存在し、自分がなぜ生きているのかを説明できないのと同じだ。考えようと思えば、いくらでも理屈はつけられる。けれど、そんな疑問はここでは意味を持たない。おそらく、周囲にいる彼らも、それぞれ生前には様々な疑問や不安を抱えていたのだろう。しかし今は、そんなも感情めいたものが自分の中にはもう残っていない。
……と、特に根拠もないのに、私はそう確信していた。じゃあ、なぜお前だけ疑問を抱いているんだ。そう突っ込まれると、それもまたおかしいが。現世の思考と、この場所での思考が同時に重なって存在しているような感覚で、説明しようとしても難しい。ただ一つだけ確かなのは、みんな死ねば同じ場所を通り、同じような状態になるらしい、ということだった。
その光景を眺めているうちに気づいたことがある。いや、眺めるという表現も正確ではない。生前の記憶は少しだけ残っている。だから「昔の自分なら、ここで悲しんだだろう」「昔の自分なら、ここで驚いただろう」と理解することはできる。
しかし、それ以上の感情は湧いてこない。だから、心が乱されることもない。そういう存在になってしまうのが、この中陰という場所の仕様らしい。
姿もない。
形もない。
言葉もない。
本来なら、名も相もなく、ただ識だけが漂っているようなものなのかもしれない。それでも、それではあまりに不便なので、私は生前使っていた言葉を借りて、無理やり姿や形があるように語ることにしている。
だから、ここまでの描写はすべて、生前の言葉にすぎない。本当は、そんなものは存在しない。言語化できなければ何も伝えられない。だから私は、拙いながらも何とか言葉へ変換している。誰かにそう命じられたわけではないが。だが、それこそが私の**業(ごう)**なのかもしれない。
昔からそうだった。
夢とも幻ともつかない曖昧な光景が、ふと浮かんでは消える。みんなも同じものを見ているのだと思っていた。いや、そもそもその思い込み自体が間違っていたのかもしれない。それでも私は、それらを忘れないように言葉へ繋ぎ止めようとする。生前ずっと繰り返してきたその癖が、ここへ来ても抜けない。
それが私の業であり、あるいは習気というものなのだろう。
だから私は、ここでも「聞いた話」や「仕様」や「システム」などと説明したがる。それもまた、生前から持ち越した私の業にすぎない。実際には、色とりどりの気のようなものが、夢幻泡影のごとく、ただ漂い、移ろっているだけなのかもしれない。私はそこから、なんとなく理解したことを、生前の言葉へ翻訳しているだけだ。
存在しないものを存在するかのように語る。現世では妙な話だが、この場所では、それがむしろ自然なのだ。
……というわけで、よけいな前置きはこのくらいにしておこう。
その場所で聞いた話によると、浄土真宗の人には四十九日の中陰を経ずに、阿弥陀仏の浄土へ往生できる「ファストパス」のような仕組みがあるらしい。なるほど、それなら四十九日の法要を待つ必要もなく、なかなか合理的である。一方、四十九日の法要で遺族がお線香を供えてくれる人には、その煙が無料サービスとして届くらしい。食香(じきこう)というやつだ。退屈な中陰のあいだ、それを食べて過ごせるのだという。ところが、野良仏教者を自認する私には、そのサービスは提供されていなかった。なんだか不公平である。
もっとも、無縁仏には無縁仏向けの無料サービスも用意されているそうだが、係の人に聞いたところ、私はその対象でもないらしい。生前、「死んだ後は好きに扱ってくれて構わない」と考えていた人間だから、まあ、これも因果応報というものなのだろう。壮大に葬式挙げてくれという気はないが区別はあの世でされる。
この冥土という場所では、そうした小さなことまで、自分の業がそのまま返ってくる。現世でひどいことをした人は、ひどい目に遭う。現世で善いことをした人は、それなりによい待遇を受ける。現世で、それなりに生きた人は、それなりの目に遭う…。
実に分かりやすいシステムだ。
遺族がお金をかけて立派な葬儀や供養をしてくれれば、そのぶん何かと豪勢で特別待遇らしい。もっとも、それがなければ困るというほどでもない。あるに越したことはない、という程度である。考えてみれば、それもまた生者の業であり、生者の執着なのだろう。結局のところ、ここで多くの人だったモノが気になるのはそこではない。
本当の意味での因果応報の果てに、自分は仏となるのか。六道輪廻の果てに、また人間へ生まれ変わるのか。カエルになるのか。あるいは、地獄で釜茹でにされるのか。冥土で待つ者たちが本当に気にしているのは、その行き先なのではないだろうか?
(つづく)

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