むかし、夜中に松屋フーズの優待券を持って、牛めし定食を食べに行ったことがある。
夜中の店で、年をとったおばちゃんが手慣れた手つきで牛めしを用意してくれた。いつもの何気ない光景なのだが、そのときふと、「この優待券を使っても、店には1円も入らないんだよな」と思った。
もちろん、実際の会計処理がどうなっているのかを細かく考えれば、そんな単純な話ではないのかもしれない。株主優待は企業が株主に提供する還元策なのだから、企業側も当然そのコストを考えたうえで制度を設計している。優待券を使ったからといって、私が店から一方的に何かを奪っているわけでもないのだろう。
それでも、なぜか引っかかる。このおばちゃんの労働に対して、私は1円も現金を払っていないという事実は免れないだろう。
配当金ならば、会社が得た利益の一部が株主である自分に現金として分配される。自分がそのお金を何に使おうが自由だ。一方、優待券は会社のサービスを株主である自分が直接利用する。店員が働いて商品を用意してくれているのに、自分は優待券を出して、その対価を直接払っているわけではない。
……そんなふうに考えると、以前ほど優待券を使うことを「お得で楽しい」と思えなくなっていた。
もちろん、「そんなこと気にするのはお前だけだ」と言われれば、それまでなのだろう。「嫌なら優待を使わなければいい」というのも、その通りだ。だから、優待券を使うことをやめてしまった。
社会の構造が見えてしまう。
私が考えていたのは、優待券を使うかどうかという個人的な損得の話ではない。なぜ自分はこんな感覚を持ったのか、その感覚の背後に何があるのか、ということだ。
優待券は企業が個人株主に対して提供しているサービスなのだから、堂々と使えばいい。それは理屈としてはわかる。ところが、そこから一歩押し広げて考えてみると、別のものが見えてくる。
そもそも、店員が作っている牛めしには、その人の労働が含まれている。食材を運ぶ人、調理する人、店舗を維持する人、システムを作る人、さまざまな人の労働によって、その一杯の商品が成立している。
そして企業は、その労働によって商品を提供し、売上を得て、そこから人件費やその他の費用を支払い、残った利益を株主への配当などに回す。
もちろん、これは資本主義では当たり前の仕組みである。企業が利益を出さなければ、株主も従業員も長期的には成り立たない。
ただ、優待券を使ったあの夜、私はその「当たり前」の構造を妙に生々しく感じてしまった。
目の前で働いている人がいる。その人の労働によって商品ができあがる。その一方で、自分は株主として、その企業の利益から配当を受け取る立場でもある。
考えてみれば、私は労働者でもあり、資本を持つ側でもある。
「労働者が働いて利益を生み、その利益の一部が資本を持つ者に帰属する」という、資本主義の基本的な構造が、普段はあまり意識されないまま生活の中に存在している。
もちろん、「配当なんてなくして全部給与に回せばいい」と単純に言えるわけでもないだろう。企業には設備投資も研究開発も必要だし、株主が資本を提供することで事業が成立している面もある。
それでも、株主として配当を受け取る自分と、目の前で働いている店員を見ると、「利益とはいったい誰の労働によって生み出されたものなのだろう」と考えてしまう。
優待券そのものは、ただの株主サービスである。しかし私にとっては、その一枚の券が、資本と労働の関係を妙に意識させるものになってしまった。
「得した」と喜んで使えば済むはずの優待券なのに、その裏側にある労働まで考え始めると、以前のようには楽しめない。
一杯の牛めしを食べただけなのに、その背後にある企業、株主、労働者、利益、そして資本主義という大きな仕組みまで見えてしまう。
世の中はそういうものだ、と言ってしまえば簡単なのだろう。でも、私はむしろ、その「世の中はそういうもの」という割り切ってしまう価値観に違和感を覚える。
当たり前になっているから見えなくなっているだけで、少し立ち止まって考えてみれば、資本主義の仕組みには「誰が働き、誰が利益を受け取るのか」という問題が常に横たわっている。
一枚の優待券から、思いがけず資本と労働の話までつながってしまった。
そして、それだけのことが見えてしまうのに、そこに何の疑問も持たない人が多すぎないだろうか。


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