戯言|私は六師外道のサンジャヤ・ベーラッティプッタの生まれ変わりなのかもしれない

徒然草2.0

釈迦と同時代に活躍した思想家に、サンジャヤ・ベーラッティプッタという人がいるそうだ、ということを知った。いや、正確には、前にどこかで触れたことがあるのだが、すっかり忘れていた、ということなのかもしれない。

仏教では「六師外道」として、仏教とは異なる思想を説いた六人の思想家のひとりとして扱われている。ただ、この六人、調べてみるとなかなかユニークで面白い考え方をしている。真理の王道である仏教に対して「外の道」を行くというだけで、私などはちょっと嬉しくなってしまう。

そのなかでも、サンジャヤ・ベーラッティプッタの考え方には個人的にかなり共感する。

簡単に言えば、あの世はあるのかと問われて、「ある」とも「ない」とも「そうでない」とも考えない、というような態度をとったらしい。もちろん現代語にしたかなり意訳なのだが、ああ、俺と同じ考えじゃん、と思ってしまった。同じ考えなだけで、生まれ変わりとかいい加減なことを言ってはいけないということはさておき…

自分ではソクラテスあたりの考え方「誰も死んだことなど分からないのに死を恐れるな」に近いと思っていたのだが、よく考えると自分の考えはサンジャヤ・ベーラッティプッタのほうが近いのかもしれない。考えてもしょうがなくね?という不可知論かつ懐疑論の立場だ。

死ぬというのは、生き物としての終わりだということは分かっている。しかし、それを自分自身の経験としてどう扱うのか、と考えると、なんとも言えない。

そもそも「死ぬこと」は経験できないのではないか。

他人が死ぬところを見て、客観的に「この人は死んだ」と理解することはできる。しかし、自分が死んだ瞬間を、自分自身の意識で確認することはできない。

生きている人間は、死ぬ直前までは経験できる。苦しいとか、眠いとか、意識が遠のいていくとか、そういうことはあるだろう。しかし、「今、私は死んだ」と認識した瞬間には、もうそれを認識する意識がない。

医学的に死をどう判定するのかは私も詳しく知らないが、「意識があるけれど医学的には死んでいる」というコントみたいな状態ではないだろう。いずれにしても、死んだと判定された本人が、その判定を自分で確認することはできない。

だから、死ぬことを体験するために、意識がある状態で死んでみたい、という妙なことを考えてしまう。しかし、それは原理的に無理だ。

「人は死ぬ時はひとりだ」という言葉を、昔はいい言葉だと思っていた。だから孤独でもいいじゃないか、という意味なのだろうが…。

でも、よく考えると、これも少しおかしい。

誰かと一緒に死んだら、別に「ひとり」ではない。恋人と一緒に死ぬこともあるし、事故などで複数の人が同時に死ぬこともある。

「死んだあと、あの世へ行くのはひとり」という意味なら、そもそも私はあの世や魂や輪廻を信じていない。死んだら意識がなくなるだけだと考えるなら、「ひとり」とか「誰かと一緒」とか「みんなで」という問題ではなくなってしまう。

そう考えると、知らない人や恋人や親友と一緒に死ぬということも、少し妙な話に思えてくる。「人は死ぬ時はひとり」というのも、結局は人間が作った物語なのかもしれない。

「死ぬのが怖くてたまらない」という人がいる。

その気持ちは分かる。私にも昔、そういう時期があった。余命を告げられたり、突然倒れて意識を失うような状況になったら、やはり怖くなるのだろう。

ただ、自分の過去を振り返ってみると、これまで生きてきた人類は、ほぼ全員死んでいる。

過去の人も全部ひっくるめて、生まれて人生を歩んだ人間を一人ひとりの個人として数えると、これまでに生まれた人間は約1170億人と推計されているらしい。いま地球上にいるのは約80億人だから、単純に考えれば、人類史上これまでに生まれた人の9割以上はすでに亡くなっている。

そう考えると、現在の地球は80億人ほどの生者がいる一方で、その背後には1000億人を超える死者がいる世界でもある。

死者だらけなのだ。

そういうことを考えると、「死にたくない」と怯えることに、少し妙な感じがしてくる。

1000億人を超える人間が死んでいるのに、自分だけは例外として死なないような気になっている。もちろん頭ではそんなことは分かっているのだが、感覚としては、どこか自分を特別扱いしているようにも思える。

みんな死んでいる。

というか、これまで生まれた人間のほとんどが死んでいる。

それなのに、自分だけはどうにか死を避けたいと考える。もちろん死が怖いのは人間として当然なのだろうし、そう簡単に割り切れるものでもない。しかし、みんなが当たり前に経験してきたことを、自分だけはなんとか回避しようとするのも、考えてみればずいぶん大げさな話ではないか。

なんとなく、怯えること自体がちょっとダサいような気もする。

これはあくまで感覚的な話なので、死を恐れている人に「みんな死んでいるんだから気にするな」と言ったところで、何の慰めにもならないだろう。

死ぬときには、それぞれにいろいろなドラマがあるのかもしれない。あるいは、本人の意思など関係なく、ある日突然ころっと死ぬのかもしれない。

どちらにしても、自分が死ぬ瞬間を自分でコントロールできると思い込むこと自体が、少しおこがましいのではないかと思う。

ちなみに、「年老いるのが嫌だ」というのは当然ある。

ただ、年老いることと死ぬことは、時間の上では連続していても、別のものとして考えることにしている。

良い死に方をするために身体を鍛える、というような終活もあるらしい。逆に、生きることへの執着を手放していくような考え方もある。

以前、食べることをやめればどうなるのか、と考えて実際に試したこともある。健常者でも食事をとらなくなると、だんだん意識を失うように眠る時間が増えていく。その先に何があるのかは、もちろん自分では経験できない。

だから、結局はサンジャヤ・ベーラッティプッタの言葉に戻ってくる。

「ある」とも「ない」とも「そうでない」とも考えない。

死んだあとに何があるのかは、分からない。

分からないものを無理に決める必要もない。

生きている間は生きている。死んだら、その先は自分には分からない。

そう考えて、あとは寝ていればいいのかもしれない。

まあ、仏典によるとサンジャヤ・ベーラッティプッタは、弟子たちがみんな釈迦のもとへ行ってしまったことで、血を吐くほど激怒したらしいが。

「あの世はあるともないとも言えません」と言っていた本人が、弟子を取られることには、ものすごく腹を立てていた。たぶん仏教が彼を悪く言いたいだけなのだろうということにしておく。なんかしらんけど喀血して死んだということなのかなぁ。

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