戯言|2000年前に幽霊=魂がないことが分かっていた

徒然草2.0

『論衡』(ろんこう)という書物を著した王充(おうじゅう)は、以下のような考えを述べているそうだ。

「幽霊は人の姿で現れ、服を着ているとされるが、もしそうなら服にも魂があることになる。それはおかしい」

このようにして、幽霊の存在そのものを疑っている。

彼は他にも、雷は神の怒りではないとか、天変地異は人間の行いとは関係がないとか、いわゆる迷信の類いを、合理的な思考によって否定している。

⋯よく考えてみれば、迷信がおかしいということは、現代のように自然科学が発展していなくても、観察と論理的な思考があれば見抜けるということだ。

⋯そう考えると、科学や文明の発展と、迷信を信じるかどうかは、必ずしも直結しているわけではない。

昔も今も、合理的に考える力さえあれば、大きく道を踏み外すことは少なかったと言えるのだろう。昔の人は迷信を信じていたみたいな決めつけは本質を見誤っているのかもしれない。
逆にいえば、どれほど文明や科学が発達した社会に生きていても、人はときに迷信に近いものに影響され、判断を誤ることがあるということなのかもしれない。

たとえば、前衛的な思想を掲げるカルト的な集団に、身近な人が入り込んでしまうこともある。

そうした現実を考えると、私たちは常に合理的な思考を手放さずに生きていく必要がある。

つまり、昔の人の考え方は、決して現代とかけ離れたものではない。

昔と今は断絶しているのではなく、時間の連続の中にある。点と点がつながって線になるように、過去と現在は確かにつながっている。同じように、未来もまた、過去と現在の延長線上にある。

つまり、未来とはまったく新しいものではなく、現代の延長であり、その一部はすでに「今」の中に含まれている。

だからこそ、過去と現在に共通して残ってきたものは、これからの未来にも残っていく可能性が高い。合理性は時間の連続性の時間をゼロにする。時間を経ても変わらないものに時間は存在しない。

合理的で普遍的な原理は、時代を超えて生き残る。そうした本質的な部分を見極めることで、私たちは未来をある程度見通すことができるしそうしていくべきではないのだろうか。

(とはいえ、服の幽霊については、単に私たちが聞いたことがないだけで、存在する可能性を完全には否定できないともいえる。

また、人が頭の中で生み出したイメージと、現実の物理空間との境界が曖昧になっていくような状況を考えると、王充の合理的な思考も、常に絶対的に正しいと言い切れるわけではないのかもしれない。)

徒然草2.0
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