少し前(2019年)のできごとで、ポーランドのカトリック司祭が『ハリー・ポッター』やハローキティを燃やしたら炎上したらしい。
日本では「ハローキティは私の神」「推しを崇拝しています」と口を滑らせても、異端の目で見られずに済む(ただし白けた目で見られる可能性はある)。
日本人で本当によかったと、キティちゃんに手を合わせるべきだ。
(参考:ポーランドのカトリック司祭が『ハリー・ポッター』や『ハローキティ』を燃やしたら炎上)
でも、割と調べてみるとハリー・ポッターシリーズの扱いは結構ひどいらしくて、学校から処分されたりは今もふつうにされているらしい。『ヘルシンク』と『とある魔術の禁書目録』を寄贈しよう。
理神論(deism)
理神論(deism)の歴史を調べているがおもしろい。(唯一神)としての神は認めないものの、最初に意図があって人が作られたというスタンスをとるものの、限りなく無神論者に近い立場と言えばいいのかもしれない。
ヴォルテールは「もし神が存在しなければ、人間は神を創造する必要があるだろう」と言った。ジェファーソンは”奇跡”の部分を削り取ったオリジナルのジェファーソン聖書を編集した。トマス・ペインは「神は信じる。でも、聖書を神の言葉としてそのまま信じる必要はない」というスタンスで熱心なキリスト信者からたたかれた。
つまりは神という言葉をつかわねばならぬ文化圏で神というか教会の影響を限りなく避けたい立場の人がもちいる説法と言ってもいい(というか避ける目的がある)のかもしれない。しかし、その目的は達成されていない気がするが…それを言えばアインシュタインの言うスピノザ的な汎神論も理神論とは意味的にも区別されるわけだが、理神論と同種の意図により便宜的に用いられる神の意味なのかもしれない。
ただし”存在”の有無という観点から、人格神としての神が存在するという一神教徒に対して理神論は存在しないという立場であるから無神論に近い立場であり、汎神論はそこかしこに偏在するという意味では存在するので有神論に近い立場である。
三位一体(trinity)
神は1つ、でも神・イエス・聖霊は別人格/各位。というのが三位一体の定義だが、1回聞いた限りでは意味不明。イエスは神でありながら神ではない、みたいな…というより何度聞いても理解できないとか納得できないと言ってもいいかもしれない。
聖霊は神の顕現を説明する方便だとしても、イエスが神と同じというのはなかなかキリスト教徒を名乗りたい人でも苦しいというか、後付けでしかないのでは?と思うしかないと勝手に思うわけだが、キリスト教徒の歴史を見ても同様で三位一体を説いていないキリスト教徒も実は調べてみると結構あるわけで、そりゃそうだよなと思う。
やはり、三位一体が正統なキリスト教徒の見解だともいい切れないのではないか。4世紀頃のアリウス派はイエスは神に従属し神の本質ではないと考えたせいで教会に本を燃やされて追放された。ユニテリアン主義という人たちは三位一体を未だに否定しており、エホバの証人に至ってはイエスは元ミカエルで天使に過ぎないと考えているそうだ。


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