日記|人は無限を想像できても考えられない

徒然草2.0

(1)「無限という概念」を知ること、(2)「無限はどこまであるのか?」を問うこと、(3)「無限を考えられる私」はすごい、あるいは不思議だと感じること――こうした話を時々耳にする。

しかし、そもそもこの三つは別のことではないだろうか。

私の感覚では、(1)の「無限という概念」を知ることは、プログラミングで言えば無限ループが書かれた状態、つまり「無限」という処理が論理的に定義され、それをそのまま使えるラベルになった状態である。

一方で、(2)の「無限はどこまであるのか?」と考え始めることは、そのラベルを実際に実行している状態だ。無限を一つずつ数えているようなもので、処理自体は走っているが、無限である以上、最後まで終わることはない。

そして(3)の「無限を考えられる私」という話になると、私は少し違和感がある。これは錯覚というより、単純に言い方の問題ではないかと思う。

というのも、「無限を考えている私」という実行状態に、さらに「無限を考えている」というラベルを貼っているだけだからだ。結局のところ無限には到達できないし、考え終わることもない。

無限を最後まで数え終えることは定義上あり得ない。そう考えると、「無限そのものを考えた」と言うのは、私には少し言い過ぎに思える。せめて途中で打ち切るにしても、何らかの結果や過程を取り出せるなら「考えた」と言えるが、結果が返ってこない処理を「考えた」と呼ぶことには違和感がある。

つまり、私の中では、

  • (1)は処理のラベル化
  • (2)は処理の実行状態
  • (3)は(2)をさらにラベル化したもの

という違いがある。

この(3)を「終わらない入れ子構造だ」「だから人間は不思議だ」と言われても、私としては「だから何なのだろう」と思ってしまう。それはラベル化とも処理状態とも言えるだけで、結局は頭の中だけで起きている出来事に過ぎない。

もちろん、「人間は無限を考えられるのが不思議だ」という感覚そのものを否定するつもりはない。ただ、私はそういうものをあまり神秘的に持ち上げないほうがいいのではないかと思っている。

むしろ私の場合は、「無限を考える」という話から、無意味さや無価値さを感じてしまう。同時に、世界も人間の脳も地続きで、決定論的な処理が続いているだけのようにも思えてくる。人間の脳は結局その外側には出られず、同じような処理を延々と繰り返しているだけなのではないか――そんなふうに感じてしまう。

若い頃は、その感覚が少し悲しかった。言うなれば、一種の受動的ニヒリズムのようなものだったと思う。無限を無限の可能性として捉える人もいるが、私の場合は無限の悲観的決定論的連続世界だった。どこまでいっても無間地獄の先には希望がないことが絶望だった。大人にこのような話をしたら「壁は乗り越えればいい」みたいなことを誰かに言われたが、壁はおろか希望がないことが連続していたことが絶望だったので「壁すらない!」と言ったので頭がおかしい人と思われたに違いない。

だから、この無限を考えるという話から何を感じるかは人それぞれなのだろう。ある人は神秘を見るし、ある人は虚無を見るということだ。

そして私は、その思考というか直感こそが、その人の哲学や思考方法を形作っているのではないか、とさえ思っている。逆に言えば、その人が最初に「ここだ」と感じた地点こそ、その人の思考の限界点でもある。だからこそ、その地点を乗り越えられたときには、大きなブレイクスルーが起きるのかもしれない。などと思っていたのだが、のりこえていない。ああ、やっぱり壁はないただ無限だったな…って感じだ。別に絶望はしていないけど、なぜならすべて幻で頭のなかで処理は行われていないから。。。

……と、ずいぶん話が飛躍してしまった。

結局、私が言いたいのは、人は「無限を考えた気」にはなれるけれど、無限そのものを考えることはできない、ということである。私たちが扱っているのは、どこまで行っても「無限」というラベルに過ぎない。

徒然草2.0
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