戯言。日本人のもっとも外国人と違う罰に対する捉え方

徒然草2.0

「罰」と聞いて何を思い浮かべますか。

私のイメージは…

嫌なこと。

避けるべきこと。

それを受けないために正しくあること。

罰を受けるのは無能だ…。

僕は罰を受けたくないッ!

…ぐらいしょうか。

うまく言い表せませんが、日本人の罰に対するイメージは私に限らず上記のことに限定されがちな気がします。

逆に、欧米人というかキリスト教文化(アンチ含む)にある人は罰を肯定的に考える向きがある気がします。

反省を促すために必要なもの。

罰があるからこそ秩序がある。

罰を受けて正しくなる。

…といった具合です。ウォーキングデットのニーガンが罰を非常に大切にしている姿を見ていて、ふと思いました…。

ある人が「ごみさんを正しさに気づいてもらうために罰を与える」と言ってきた。仕事で私に非がある出来事に対し、彼は罰を課したのだ。しかし、私はそれに理解ができたのだが、その罰に関しての意味が、どうしても体感できないということに気がついてしまった。早い話が「身体的な罰を理解していない」ということに気づいてしまいました。自分は悪くないと心のどこかで思っていてもともと腑に落ちない部分もあれど、そこに関して罰を与えられても心底反省のしようがなかったのです(汗)というようなこともあって、罰にはデメリットしかないと思っています…不思議なものでデメリットしかないと思っている人間に罰を与えても、デメリットしか感じないようにできているようです。

例えば、集団行動で連帯責任で腕立てさせられる…みたいなことが部活なんかであっても、避けるために努力するためのものであって、別にそれが必要とか秩序とか正しさとかにつながるという信念が皆無ですね。

理由は色々とありますが、主因ではないと思っていますが一因として親にそういう罰を受けなかったからかもしれません。怒られはしますが…エホバの証人の子みたいに鞭で叩かれて矯正させられるような体罰を受けていないので、そういう感情がそもそもないのかもしれない。早い話が罰がわからん。

罪の意識が無いのに人の道から(大きくは)外れないのは、他人の前で恥をかきたくないとか、信用を失うことは怖いことだとか、そういう恐怖心によるものが発端で、善い人を演じていた方が得をするみたいな、利己心に基づいて生きているからだと思いますし、多くの日本人が多かれ少なかれそんな感じなのではないでしょうか?

例えば、日本人というか日本の保守主義者(というか日本会議の議員とか)は、憲法改正をする理由に「米国人に押し付けられた憲法だから」ということを理由にする。これを一種の「罰」と考えているわけですし、米国も敗北した日本に「罰」を課したと思っているのかもしれない。ただそれが、嫌なもの、避けるべきもの、みたいな忌諱すべきものとしてしか捉えていません。

つまり日本人の感じている罰と欧米人の考える罰は微妙に違うのではないでしょうか。欧米人は自分たち以外の国にキリスト教文化を流入されたのはその土地の人(土人)を啓蒙しようとした大義名分を持っていたと思います。日本人もトルーマンに猿と言われていましたので啓蒙もしくは3S政策的な洗脳をしようとしていた…洗脳手法を理解する必要はないのかもしれませんが少なくとも「罰」に関してはズレがあると思います。

日本人は罰を役立てようなどとは微塵も思っていません。役立てるとしたらせいぜい「惨めな負け方をしないようにしよう」という腹づもりで生きる自分のために選択をすることがせいぜいであって、広島にある原爆死没者慰霊碑に書かれた「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」は民間人を虐殺せしめた米国にこそ罪があるのだ!ということになります(だから、俺らが罰を受けるのはおかしい!)という主張にすり替わります。それがいいかわるいかとか、それじたいにどうこう言うつもりはありません。ただ、米国が課した指導しての「罰」を日本人は文化的に反省する必要なものとか、秩序のために授かったものとか、それによって正しくなった…などということを考えているのは一部の人たちが非常に浅く受け取っているだけに過ぎないのでは?と思いました。

自主憲法制定するくせに経済では米国と歩調をとり中国にもいい顔をするという、これまた煮ても焼いても食いにくい国になっている気もしますが(汗)

結論として。無いものは無い。…そこへおとなになってから在るように養成するのは、自覚した本人がそれを求めた結果でしかないと思います。

私が罰を理解したかったら、大人になってから罰の概念を身体的に求めなくてはいけない?なんてことをふと思いました…つまり鞭で叩かれるSMごっこをしないといけない!?自分がわりと長くやってきた柔道というスポーツはなかなかSM要素があると言われています。痛いのを楽しめるマゾな精神がないと続かないということです。わりと痛めつけられてきただけなのに罰を理解していないので、叩かれて理解するようなものでもないようです…つーことは「頭でも身体でも罰を理解することは不可能」ていうことになりますね。理解できないものを養成することが間違い…ということになりますね。

コーチング/認知療法の分野においても罰を与えても成果が上がらないということのエビデンスが整いつつ在る気がしますが…別に民族や宗教に関わらず、心理学的にそういうものなのでは?という気もしています。その変どうなんでしょうか。

徒然草2.0
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