日記|勉強できない子、勉強やらない子、に「やれ」と言っても意味がない。

徒然草2.0

「勉強できない子」「勉強をやらない子」に「やれ」と言っても、あまり意味はないと思う。無理にやらせれば、場合によっては教育虐待になってしまう。

自分の経験を振り返ると、「なんとなくこれを勉強したいな」と思って動いているときは、誰かに「やれ」と言われて始めたわけではない。誰かがきっかけになることはあるかもしれないが、最終的な動機は結局、自分の中からしか生まれない。だから最後は、他人があれこれ言う問題ではない気がしている。

せいぜい他人にできるのは、自分で歩き出そうとしたときに躓かないよう、先回りして環境を整えたり手助けしたりすることに、どれだけコストを払えるか、そのくらいではないだろうか。もっとも、それも万能ではなく、たかが知れている。

勉強ができない子、勉強をやらない子の代表選手としては、そんな結論に至った。

逆に、勉強ができる子ってどういう経緯で誕生するのかは、正直よくわからない。身近にいなかったわけではないが、サンプルが少なすぎて心理状態が想像できない。

図書館で多くの人に借りられている『中学受験に向いている子と向いていない子』という本を読んで、「なるほどな」と思った。当時の自分もそうだし、大人になった今の自分も、中学受験には向いていなかったと思う。だから……いや、それ以上この話はやめておくが。

少なくとも、中学受験に向いているのは、大人顔負けに弁が立つような精神年齢の早熟なタイプで、「知的好奇心が強く、自分で勉強するのが得意」であり、「将来これだけは絶対に達成したい」という目標を持っている子どもなのではないか、と思う。自他1つもあてはまらず。

だいたい、自分は今でも精神年齢が実年齢に追いついていない気がするので、身体年齢だけは60歳くらいになった気がしている。

精神は子ども、身体は老人、頭脳はもとから老人、コナンにひっかかりもしない。

最近は頭がぼーっとすることも増えたし、頭の回転も遅くな った気がする。でもそんなことを他人に言っても、「いや、もともとでは?」と言われそうだし、自分でも「まあ、そうかもしれない」と思う節がある。

ただ、もともとぼーっとしていることと、認知能力や思考能力が落ちてぼーっとすることは、だいぶ異なる。外見からすると同じで内的には異なる。その違いを説明するのも面倒なので、黙っているが。それはさておき、

…何事も「面倒だな」と思うようになったら、それはもう老人なんじゃないか、とも思う。

……まあ、そのことをわざわざ口に出すのも面倒なので、今日も黙っている。

どうやら自分には、「面倒くさい老人」になる才能の芽がありそうだ。

(ただの悪い因子である)


1割の優秀な人は、放置していれば社会に有益な行動をとる(社会システムが、そういう人たちを活かしていくデザインさえしっかりしていれば)残りの7割ぐらいはムチを打てばそれなりに使える。残りの2割は切り捨てる。今後、この1割の人たちが絞られて、残りの2割の落ちこぼれが拡大する。経済的に言えば中間層が消滅するというやつに近いことが知能によるヒエラルキーでも生じる。ということを踏まえて、どういう人生戦略をとるのがいいのか?なんてことを広い視野で捉えているのだけど、最適解がぜんぜん思い浮かばない。

とりあえず、ルソーってただの変態だから自然人とかわけわからないことを言っていたのだと思っていたけど、國分功一郎『暇と退屈の倫理学』を読んで彼の教育論ってそんなに間違っていないというか同意できるところも多々ありそうだと気づいて、自分自身のルソーに対する偏見を捨てて『人間不平等起源論』と『エミール』は読んでみないとダメだなと思った。私有財産を否定的に見ていたという意味ではアナーキズムの父であるプルードンと似ているのかも。

徒然草2.0
スポンサーリンク
シェアする
gomiryoをフォローする
ごみぶろぐ

コメント

タイトルとURLをコピーしました