日々、考えること。考えるな、感じろ(月並み感)

徒然草2.0

rubyをdisりたいわけではない

rubyをディスりたいわけではない。rubyでできているプロダクトに何があるか知らないし…あ、1つ知っているhuluはrubyでできているが悪くない。rubyだから悪いというわけではないが、私が使っているというか使わされているとあるrubyのWebアプリはRubyだから使い勝手が悪いのではないか?と思ってしまったりする。実際にあるキャリアアドバイザーはRubyが開発スピードが速いからといって採用されたもののマネタイズに成功したものは少ないというようなことを言っていたのが気になっている。もう少しどうにかならないのか?とUI的に思うものは多々ある。でもそれはphpでもふつうにある。自分が使っているWebアプリもしばらくすると投稿ができなくなったりする…クッキー飛ばてからしばらくしてPOSTしても反応してくれないのか?HTTPレベルのレイヤーとかの話はしらんけどそれに調べる義理もないのだけど、それがとても億劫なくらい嫌になるWebアプリケーションをつかっている。入力する気がまったくナッシング。…ていう愚痴でした。

言葉は体を表す

言葉は体を表すという。すなわち人格も言葉を見ればわかるという意味で言っている。。けれど、言葉は伝染する。他人の言葉を見ているうちに似てくる。その程度のものでもある。丁寧に汚い自分を覆い隠すことができたら、いかようにも誤魔化せる。とはいえ、それだけ言葉を読む側が大切にするということは、また良い言葉を沢山吸収すればこそ自分の言葉の体もそうして変えられるということ。筆で自分をごまかしていることと、丁寧な言葉を心がけて印象を良くする行為は、紙一重な感じである。良い言葉運びを訓練することにこしたことがない。

## スパイシーキャビア

からしめんたいこが海外で売れているらしい。しらんけど。

アファメーション=成功習慣

成功習慣について

アファメーションを書いてコーチングを行うがもっと広い定義でとらえる。自己対話(?)自己対応(?)をしてコンフォートゾーンに戻っていく。とは言っても「守る」ことが年をとったひとの武器だったりする。ポジティブな自己対話をする。うまくいった時に自分を褒める。自分の事故イメージを上げていく。ただ、意識高い系と揶揄する文化が日本にはある。どうやって客観的な評価を上げていくべきか?そういう自分勝手な思い込みと自己評価を上げるということに意味があるのだろうか。成功の定義が他人がきめることではないにせよ。無意識な自己対話をコントロールする≒アファメーション。自分は自分からフィードバックを海馬→前頭葉に反映つーことをしているので、ネガティブをポジティブに変えていく。エフィカシーが高い=成功???

釈迦の悟り

釈迦の悟りは縁起でも空でもない。

…以下、個人的なメモ。

釈迦が勝手なことを言っていいのは…王様の息子だったから。釈迦以前…輪廻転生⇔釈迦以後…霊と世界は別物。釈迦の服が黄色いのはただの汚れ…糞尿らしい。釈迦が生きているうちに女性の出家が認められるようになった。バラモンはカースト・身分制度を維持する仕組み。釈迦は王族なので暗殺された可能性が高い。バラモンの修行を真似て母体樹の下で空腹でぶっ倒れてたところスジャータがヨーグルト粥を与えた。母体樹の下で釈迦が悟ったのではなく、釈迦が悟った木を母体樹と呼ぶようになった。小乗仏教→言い方がわるいということで→上座仏教と呼ぶようになった。釈迦の骨を祀る…ストゥーヴァ…ナーガールジュナが「釈迦が空を悟った」と言った。中論。論破するための文章。お釈迦さんが12縁起を語った…アプリオリはないですよ。(アプリオリはカントとかの話)釈迦は、縁起と空について概念として語ったことであるにすぎない。チョンカバ?ソンカバ…釈迦は何も語ってないというトンチみたいなことを言っている。ゲルグ派→チベット仏教になった。

悟った内容と語った内容は違う。ちゅうかんは…言葉にたよりすぎ。ディベートをやれ、そして、ディベートをこえろ…釈迦のいったこと。語ることは雑念ではなく、それに対して余計なことを考えることが雑念。脳をフル回転することは瞑想だが、それをストップすることが雑念。言語的抽象度が高いことは言語化できない。親をまずこえなさい。スコトーマ…盲点。盲点を無くすこと。自分が重要だと思っていることしか見えない。点…線分の端、円の中心、2本の線をまじるところ。自分探しにインドへ行っても自分の情報が増えるだけで悟れない。自我…自分にとっての重要度を挙げられること。そこにあるのが、八正道。

コーチング…自己評価関数を自由に決めること、自由にコントロールすること。自由関数を決めること。唯識派…は点があると言う→間違っている。中観派…理論にこだわりすぎ。悟り=自我を超越すること。盲点を無くす。思い込みから自由になる。

般若心経の間違い…菩薩が仏陀(阿羅漢=舎利子)に指導しているのが変ということなのだが。阿羅漢になる前の舎利子に説いているんでは?観自在菩薩=仏陀=釈迦であるにせよ、一緒に修行をしている者=阿羅漢になる前の舎利子ということで、観自在菩薩をエイリアス(別名)として仮置きしていると言えば誤りというわけでもないのでは?つーか、もともと般若心経の観自在菩薩…は普通に読んでいておかしいと気づくところである。般若心経は漢語のお経の始まりにある枕詞的なくだりもない…すなわち偽経つーのも手軽なサマリーということだからとるに足らない話と言えばとるに足らない話。

お経とは…釈迦の教えを残すものだが、経とは説法で悟りを教えること。釈迦「呪文をとなえてはいけない」般若心経のハラギャーテーは呪文。漢語のお経は偽経…仏教者でない人が残した。

空即是色-色即是空の間違い…抽象度が異なるものを結びつけるのは×。色不異無-無不異色 色即是無-無即是色 空包摂色-空包摂無…ということだが、たんに即是がコンバート関数的な役割だと思っていて、漢語の即是は数式のイコールと同義ないしは日本語の「は」という接続詞と同義ではないのでは?しらんけど。だから別に誤りと断定するたぐいのものでもないという印象を受ける。調べてみると…是空は一体不二を表すという。先に述べた私の考えは半分あっていて半分まちがっている←これを一体不二という。2つの状態が同時にありえるものを実体とは呼ばない。是空はイコールでも「は」でもない。私の感覚的にはワンテンポほど時間を感ずる。即是に瞬間性があるとなると、あとに続くお経も意味がとりにくくなる。言葉が連環している…フローしているつーのが瞑想におけるバックグラウンドミュージックとしての般若心経なので、般若心経はやはりあれはあれでいいのだ…と思う。

参考にしたURL(https://ameblo.jp/nyantail/entry-11613984239.html)

神=完全情報。空は有と無の包摂だが情報が少ないもので神=空ではないどころか全くの逆。矛盾は情報量が多すぎる(というのが数学的矛盾の定義)宇宙は、矛盾ー神(無矛盾)ー空、と定義できるってこと?しかし不完全性定理により神は存在し得ない←無矛盾が真である=儀ではない、とはいえないでは?

疲れてきたのでまた今度。

徒然草2.0
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