戯言|死は平等であるか不平等であるか?

徒然草2.0

宗教学者の山折哲雄は、朝日新聞に次のようなことを書いていたそうだ。

「死は老衰の果てにある者だけでなく、幼少のあどけない童子にも容赦なく襲いかかる。富者にも貧者にも分け隔てなく鉄槌を下す。容赦なく分け隔てがないゆえに、これほど残酷で不平等なものもあるまい。そして、いつでも理不尽に襲ってくる。善人にも悪人にも分け隔てなく。」

……ここでいう「不平等」とは何だろう。

長生きする人もいれば、突然死ぬ人もいる。そういう意味で、死は人を選ばず訪れる。だがその「分け隔てのなさ」こそが、不平等だと言っているのだろう。
しかし見方を変えれば、誰にでもいつか訪れる可能性があるという意味では、死は平等である。また必然的に訪れるという意味でも、死は平等である。

つまり、人の属性に関係なく訪れるという点では不平等であり、誰にでも訪れる可能性や必然性という点では平等でもある。

そして私たちは、その不平等な死を悲しみ、時に憎んだりする。

⋯となると、そもそも死とは何なのか。あるいは「平等であるべきだ」という前提自体はどこから来ているのか。考え始めると、いくらでも広がっていくなぁ。

そういえば、40歳とか50歳という年齢は、なかなか微妙な時期だと思う。このまえ、自分は42で⋯って言っている自分がなんだか信じられない年齢になったものだ。30歳の婚活リアルきびしいって⋯という話を、40歳の婚活は1000万超あっても妥協しないと厳しいわけだが、ないのでもう想像すらできないな。

平均寿命がゴールとすれば40は折り返し地点。病気も増え、突然死ぬ可能性も現実味を帯びてくる。とはいえ、死を真剣に考えるには、まだ早い気もする。かといって若者の顔をしていると「いい歳して」と見られるので、自分から「おっさん」を名乗っておくようになるのが板につく。

死について考えるには早すぎて実感がなく、かといって若い頃のように軽くネタにできる時期でもない。もちろん、死について考えること自体に年齢制限はないはずで、その意味では平等だ。

しかし同時に、人の年齢や置かれた状況によって、その言葉の重みはどうしても変わってしまう。
たとえば、今の自分が「死に際」をテーマに本を書いたとしても、ステージ4のがん患者の言葉ほどの重みは持たないだろう。

ここでもまた死を語るにしても、死の平等性と不平等性の壁にぶつかるわけで、なんか(自分の思考回路が)面倒だな。

徒然草2.0
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