戯言。ジブンノタマシイハジブンノモノ

徒然草2.0

突然ですが所有というのは何でしょうか。

アナーキストの父と呼ばれるプルードンは「所有とは収奪である」と言いました。これだけだと、あまりピンと来る人はいないかもしれないけれど、、、土地なんてものは、そのもっともたる例であると私は思います。

土地は最初に誰が所有していたなんてことはないはずで、誰かが「ここは俺の土地だぞ―!」と言うたかどうかわかりませんが、柵で囲って「自分の土地!」って言って、周りの人を締め出して強引んに認めさせたから、その人の土地になったってだけの話であり、ようは誰の土地でもなかったところを所有化しだしたのがはじまりでしょう。で、他人の土地だったら戦争なりして奪ってきて、でそこの土地で農作物を生産するなり小作農を働かせて豊かな地主というものが生まれる。言ってみれば土地の収奪の上にそういった人間の営みがあると思えば、人類史は収奪そのものが前提にあるだけなのかもしれないし、そうして所有したものを権利と化して民の生活が成立するわけだ。土地がなければ民草もいないという意味では、すべて人間の原点は土地/地面にあるのではないか。

所有という観点から企業なんかも所有に関わるその最もな例で、他企業が市場を専有する前に自分の商品やサービスを売っていかないと市場を奪われてしまう。商売も市場の奪い合い。代替可能な個人の労働力も変更コストが掛かるくらいなので、自分の居場所という言わば土地を守り権利を維持するために戦っているようなものだし、広義の土地である自分の所有する場所を守るために戦っているのが実際のところではないのだろうか。

これは自然の現象で、私たちは自意識の拡大を延々と生きている間にしていかないといけないのだろうか。ある意味で合法的な収奪を繰り返して、私たちはベネフィットを蓄え続けているわけだ。利益を出すということはそういうことだ。相手から奪っているのだ。(そのあたりの批判は無視して少し飛躍するが)でも、ここで1つ他人から奪えないものがある。それは自分だ。

自分の魂/霊は自分のモノであるという確信が(一応)あるということです。いや、まあ自分の存在も天なのか実のなのかわかりませんが、父や母から授かったもので自分の意思とは関係なしに与えられたモノといえばそうなので、厳密には自分のものではないような気がしないでもないですが、痛みを感じているのは自分だし、一所懸命働いて得たお金は自分のものだし、なにか失敗をすれば責任を負うのは自分だし、機能的な推論で極めて主観的な現象ではあるけれど、行動に関する効果=エフェクトをもろに受けるのは私です。

だから、私は私であるという一種の確信を失う人っているのは「いないことはないのですが」ふつーに感覚としてはあるわけで、それだけは揺るがないし、どうやら揺るがしてはいけないものだという確信も持ちつつあります。逆に自分をしっかりもっていれば、この世はどうにかなるという気もします。

いずれにしても、自分のたましいは自分のものである。

この部分は、揺るがないし、揺らいでしまうと怪しい宗教や怪しい人たちに操られるので、そういう意味でも、失っちゃいけないものなんですね。哲学的というか論理的というか、理知的にと言えばいいか。自分が自分を所有しているかどうかが仮に偽だとしても(真であるという証明が不可能だと思っているのでこういう言い方になる)、現代に生きて不利益を被らず実用的に自分を使いこなすためには、いかなるときも自分を持つべきです。

徒然草2.0
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