【戯言】広く浅く他人との交流を好まない件について思うこと…都市型の個性

徒然草2.0

(私は)他人との交流を好まない…と思うのは概ね自分の問題であり、自分の中に生まれる不快感が、どうしょうもないからだ。

…その不快感は、他人からすればどうでもいいものでしかない。

そして、それは、すべての他者の間に生まれるものでもなく、また、特定の他者の前では区別される。

(伝わらないと思うが)別に私はすべての場合において「他人との交流を好まない」と思っているわけではなく、どこか現代に生きている人はみな広く浅くが基本で、深く他者と関わるということを避けている。ちょうどいい距離感の適切な関係というものを重んじていると言ったほうがいいかも。

あともう1つ「他人との交流を好まない」と言えるくらい、
1.世の中がインターネットをベースにしている
2.人類にとって特殊な空間である「都市」に私(達)は住んでいる
(もっと細かいことを言えば他にもあるが)
これらの条件が人と人との交流について複雑かつ特殊なものにしている気がする。

田舎で人と人の距離が物理的にも精神的にも近い空間であれば、個性を捨て去ったほうがいいというより捨て去って全体のピースになったほうがいいというよりは、そうならないとやっていけないと思うのだが…それとはずいぶん違う。とはいえ、都市空間においても田舎型の距離感がないか?と言えばそんなことはなく、特定個人と非常に親しい関係になることはあり得ない話ではけしてない。むしろインターネット空間と都市空間の中には、田舎空間が存在している。

そういう意味では、、
インターネット空間・都市空間と田舎空間は対立項ではない(むしろ内包関係にある)

…そういうわけで、これらを踏まえてインターネット空間と都市空間における「他人との交流を好まない」というスタンスについて。

これは割と現代に固有なものであって、別に私自身しか感じない精神のあり方ではない、と思うのだ。

ただ自分の過ち(?)かんちがい(?)を1つ上げるとすると、そういった精神のあり方の解消を古典的な名著とか近代史に答えを求めることがナンセンスなんじゃね?と今更いろいろなことを考察していて気付いた。(それするくらいならサブカルチャーから入ったほうがいい)少なくとも古典は古典で、都市における個人のわびしい所とは、分けて考えるのが世の中的には「ふつう」だと思うのだが、いままで自分は一緒くたにしていたが、きちんとわけていくべきだなと思う。

ただ、自分はサブカルチャーや現代的な文学よりも古典や近代史とか言うものからアプローチして行きたい。二次情報よりも一次情報にあたりたいと思う。

ここでやっちゃーいけないことというか、不要だなと思う議論を先に言ってしまえは「そんなの田舎には関係ない都市の話である」という切り捨てだったり「都市は都市意外のものがないと成立しない」とかいう限定的なものの見方をあえてすることで、そういう話は「都会人かくあるべきでかくあらんとするか?」みたいなことを考えたい人からするとノイズでしか無いんだよな…ってことを知っておくことかなと思います。

ちょっと自分で書いていてよくわからなくなったが、人間のコミュニケーションはコミュニケーション空間の変遷によって、よく分からないものになってきている。

徒然草2.0
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