常在戦場。武道に勤しんでいた時はこの言葉が好きだった。いつ戦闘になっても即対応できなければ武道家として失格だ。常に戦場にいるつもりで、この世の中を生きよ…。まあ、そんな気持ちをいくらもったって現実がうまくいくわけでもないのだが。
あとは、何かの漫画で出てきたのか忘れたのだが「この世を偲ぶ仮の姿」となどと言って、このフレーズには痺れるというか真似てやりたくなる。月光仮面や仮面ライダーやタキシード仮面や変態仮面もみんなそう。
自分という存在もまた、本当でなくて良いペルソナを被った人間に過ぎないと思えば、彼らとは逆の意味で(カッコいいのが望ましいけど)カッコよくなくても自分の自尊心を保っていられる。ご都合主義だな。
所詮、この世は現世(うつしょ)に過ぎず、黄泉(よみ)からの使者としてここにいるだけだ。遠離穢土から離れ儚く消える運命、時が経てば去らなければならない。ああ、楽ちんや。
…いずれにしても、この世の中をどこか仮称的な空間だと捉えている。いや、昔の癖か今も変わらん。僕は少し変わっている、と思っていたが、そうでもないのだ。日本人みんなTPOに合わせて心を変えていて、それが上手い人が人生上手く行く。ずっと私よりもみんなうまい具合にそれをやってのけている。
そうだ。1身にして2心あり…は日本人の基本的なパーソナリティなのだ。橘玲から山本七平に移って日本人について学んでいる、というか彼らについて知ろうとしているが、彼らは日本人の中で生きている自分に違和感を覚えながらも、自分の日本人的な部分に嫌というほどに自覚をしていたんだろうなあと思うと感慨深い。
さて。もっといえば、多様なこの世においては多心あり。複雑な階層を描いてみせて都合よく行ったり来たりしてやり過ごして私達はすごしている。思えば、色々なシーンで私達は心を切り替えている。自分はその切替が下手だ。そのフィールドで誰かが切り替わったら、ドミノ倒しのドミノの如く上に従って切り替える。怖いくらいのスピードで。ぼさっとするなと誰かが私に言う。
山本七平はこれを臨済感と言ったらしい。かっこいい言葉である。臨済宗、みたいな。
空気を生み出す現況で、常にポジティブに作用するものでもない。とはいえ否定するものでもない。ただ私達はこの臨済感と臨在感的把握でモードを切り替え空気を作り出す。
空気は論理(言葉)を超えて地場(その場所、という意味)を支配する。
自分や集団に、この情況(臨在感的把握による空気)が作り出されると、上手く行っている時は良いが、下手を打てば全滅するのに。
思えば歴史を学び、臨在感を作り出すことが、私が生きていくにあたっての修行みたいなもので、それでこれからもその臨済感の多様性と深化を目指すことが即ち知性の向上に繋がるのだが…本当にそれでいいの?という迷いがたまにある。
空気に頼らない思考のフレームワークを手に入れるとしたら何があるか?という問いの1つに対してあえて上げるものがあるとすればイザヤペンダサン=山本七平がなりきろうとしたユダヤ人ということになるのだが、明日から「ユダヤ人になろう!」という、なろう系の空気が一時的に僕の中に生まれて消えるだけ。
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