『山月記』中島敦を読んだ感想。秀才の李徴(りちょう)が虎になる…才能を伸ばす機会を臆病ゆえに失して、己に潜む獣に取り込まれる

徒然草2.0

「リアル山月記」という言葉がある。

世間ではいい大学に出て周りが地頭がいいと認めるのに、定職にも就かず落ちぶれていく人のことを、『山月記』の主人公である李徴(りちょう)に例えてそう言ったりするようだ。(もしくは単純に山の中にいる大きな虎のイメージをそう言ったりする)

中学生ぐらいの国語の教科書を読んで面白いと思った話であるのだが。

しかし、優秀な人が山の中に潜む獣に変貌する話だった…というところまでは思い出せたのだが「なぜ虎になったのか?」が思い出せなかった。いい話だったはずなのだが、なぜ思い出せないのだろう?というわけで、改めて読み直してみた。要約すると以下の文に私が知りたかったことが表されている。ちょっと長いが引用する。

人間であった時、己(おれ)は努めて人との交わりを避けた。人々は己を驕傲(きょうごう)だ、尊大だといった。実は逸れがほとんど羞恥心に近いものであることを、人々は知らなかった。勿論、かつての郷党の鬼才といわれた自分に、自尊心がなかったとはいわない。しかし、それは臆病な自尊心とでもいうべきものであった。己は詩によって名を成そうと思いながら、進んで師に就いたり、求めて試友と交わって切磋琢磨に努めたりすることをしなかった。かといって、また、己は俗物の間に伍することも潔しとしなかった。共に、我が臆病な自尊心と、尊大な羞恥心との所為(せい)である。己の珠(たま)に非ざることをおそれるが故に、敢えて刻苦して磨こうともせず、また、己の珠なるべきを半ば信ずるが故に、碌々として瓦に伍することも出来なかった。己は次第に世と離れ、人と遠ざかり、憤悶と慙恚(ざんい)とによってますます己の内なる臆病な自尊心をかい太らせる結果になった。人間は誰でも猛獣使いであり、その猛獣に当たるのが、各人の性情だという。己の場合、この尊大な羞恥心が猛獣だった。虎だったのだ。

なーるほど。

そうして、李徴は友人の袁傪(えんさん)に虎になった悲しみを吐露して山中へと消えていった。

当時、私はこれを読んで「以下に頭が良い人でも他人と交わらずに才能を伸ばす努力をしなくてはいけないんだなあ」みたいなことを感想文として書いた。

…というか、そのようあるべきだと授業中に教師が言った気がしたから、それに倣っただけなのだが…。33歳で亡くなった中島敦が胸中で訓戒としていた想念を李徴に語らせたものかもしれない。(文学的な統一的な解釈なり中島敦が何事か山月記について語ったかは知らない)

でもこれって、そういう話だったのだろうか?もう少し深めてみると…

物語は名作であるのだが、昔も今も教訓的なところがあると思う。というのは、李徴が言うように「人間は誰でも獰猛使い」だというから。自分にとっての猛獣ってなにかしら?と思う。

人はだれしも才能のあるなしに関わらず、その性情が発露してしまえば社会で上手くいかず俗に紛れることもできなくなる。

じゃあ「もっと努力しろ」ってわけでもないし、俗に紛れることが是という話でもない。

李徴は己の場合は「尊大な羞恥心」と言ったが、尊大かどうかはともかく誰でも羞恥心がある。

誰しも傷つきたくはない。多かれ少なかれ、才あるなしに関わらず、羞恥心というものはかなり厄介なもので、これをじれさせると人間関係ひいては社会生活を破壊してしまうものになるのかもしれない。山月記を読んだ人がどう捉えるかの話で人によって感想は異なり正解があるわけじゃないけれど、と私は「己の羞恥心」とどう向き合うかという観点で読むかなあ。

ただ現代は「自分の好きなことをやったもの勝ち」なことがあって、名声にこだわりすぎた李徴もどうかと思うかなあ。何ともいえないが。

いずれにしても『山月記』は何度読んでも文章に無駄がなく、すらすらと読めて情景が思い浮かびリアルでかつ考えさせられて面白い。

また内容をすっかり忘れた頃に読み返したい。いずれにしても山月記が私の教訓になるほど私は自分の獣を飼い慣らせないから内容を忘れるのだ。そのうち人間であることも忘れるのかもしれないが、まあそれはそれでいいか。。

徒然草2.0
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