戯言。現代思想の延長にある現在2020年代までの相対性に加えるとしたら脱構築

徒然草2.0

現代思想は根付いているか?

なんだかややこしいタイトルになったが…現代思想を進めよう会みたいなことを行っているものの、自分などは現代思想なるものが示唆した時代になっていると思っていて「現代思想をすすめよう」などというおこがましい啓蒙活動はしなくていいと思っていたりしている。

…で、少し最近の書籍を読んでみると…そんなことをずっと考えていた10代の感性が蘇ってくる。

少なくとも本を読め!みたいな言い方を現代思想を摂取させたい者にしてはダメだと思う。マンガをダラダラと読んでいるだけで自然に頭がよくなるような、都合のいいメディアを介して摂取したいと思うし、そういうものを創作するんなら大賛成ではある。実際に自分もそういうことをしたい。富野由悠季や宮崎駿や手塚治虫みたいにどうにかこうにか若い人へベストな方法で思想を摂取させたろうみたいな努力をしたくない(宮崎駿はちょっと違うかも)。

楽して手に入れること、これを昭和時代の頭がカタイ人間は怠惰とか言うのかもしれないが、愉快なやり方でも効果が同じか勝るか多少は苦行より劣るにしても、そのほうがいいというのが現代だと思う。資本主義経済においては、楽をして成功している者が目立つのであるが、そこに参加してもいいし、そこから更に少し距離をおいて自分だけが愉快な世界を作ったほうが、楽であるし理に叶っている。楽であるとは面倒ではないということだ。面倒ではないこと大事。ストア哲学やジャイナ教が語る禁欲にしても、それそのものも行き着くのは自慰に過ぎない。少なくともストア派の禁欲は自己愛の延長だし、自分を守るための思考法という意味での禁欲であって、千日回峰行のような日本の大乗仏教に見られる修行ロジックとは異なる。(ただ、現代の今だって使える思考法だと思うが)結局は同じ自己愛に行き着くのだが、であるにしてもこういった既存のものを持ち出す時点で古臭いし面倒くさいから楽じゃない気がするんです。(別に古いことが悪いとは言っていないし、面倒くさいし楽しいと思う人が摂取すればいい)(ドラゴンボールZ的な修行に個人的に取り組むのは別に嫌いじゃないですし、修行することで一定の成果は出ますし、したい人がすればいいこと)

…生真面目さで潰れるよりも、最適な手抜きを学びなさい…ある意味で市民権を得ているスタンスではあるが、だからといって不真面目さを出すと先輩方は未だに怒るでしょう。誰かに怒られないように生きるのもまた、最適な手抜きで対処しないといけないってことですが。

現代の生き方-相対主義-

現代は…賢い人間でなくても物事に真理がないことは知っている。それでもなおもって神を想定して道徳を信じるほうがマシだと思う人もいる。そんなものに興味がないと距離をとる人もいる。ただし、思想的なことに取り組むと、そういったものに付かず離れずの立場をとることになる。真理探求の取り組みだった哲学がたんに物事を正しく捉える取り組みに変化しても、その先にあるのがまた別の真理に他ならないからである。ハードな真理がソフトな真理に変わっただけで、人類の真理探求の道にまだ終わりはない。幸福になるためにはゴールが必要であり、正しさの目標には真理が必要なのだ。しかし、私たちが今ここにで生きている幸福と奇跡に感謝しなさいと言っても悟れないのが人間(苦笑)。

日本の若者が日本という国家に寄り添って生きているのは、ただそこに生を受けて日本語を喋っているだからに過ぎない。さとり世代・にーちぇ先生みたいなメタ的に物事を相対化して物事を正確に捉えようとする試みの先に私たちは一番ましな意思決定をしているに過ぎない。

これまでも、そして、これからも…十分に1980年代に想定した現代の延長を、これからの世代はみんな歩んできている。

「明るい豊かな未来」を築くためにひたすら「真理探求の道」に励んでみたり、企業社会のモラルに自己を同一化させて「奮闘努力」してみたり、あるいはまた「革命の大義」とやらに目覚めて「盲目なる大衆」を領導せんとしてみたりするよりは、シラケることによってそうした既成の文脈一切から身を引き離し、一度すべてを相対化してみる方がずっといい。(中略)対象と深くかかわり全面的に没入すると同時に、対象を容赦なく突き放し切って捨てること。同化と異化のこの鋭い緊張こそ、真に知と呼ぶに値するすぐれてクリティカルな体験の境位(エレメント)であることは、いまさら言うまでもない。簡単に言ってしまえば、シラケつつノリ、ノリつつシラケること、これである。浅田彰『構造と力――記号論を超えて――』(1983年)

別に10年経ってもなにか変わるわけではない。

「おわらない日常」を生きるとは、スッキリしない世界を生きることだ。何が良いのか悪いのか自明でない世界を生きることだ。(中略)そういう混濁した世界のなかで相対的に問題なく生きる知恵が、いま必要とされているのではないか。宮台真司『終わりなき日常を生きろ』あとがき

で、今も別に何も変わっていない。ニーチェが言うニヒリズムに陥らず、だからといって熱狂的なものを避け、だからといってシラケ続けるのも違うから、調子にノッてみたりする道化を続けている。もっとうまくそういうことを10代や20代のときやってくればよかった。

そうやってみんなどうにかこうにか生きている。自分は、今もこれからも、そんなものだと思って世界を眺めて生きていて、みんなそういうものだと勝手に思い込んでいる。世の中は相対的な現象で成立している。

相対的–メタ的+脱構築

結論:相対性を経て現実の事物が一体なんであるかを推し計ることが第一プロセスで次にメタ的に分析して脱構築後→再構築をするのが第二プロセスで、この部分を上手にしないといけない。

相対的またはメタ的である時点で現状把握が正確に済んでいるのであれば、あらかた問題は解決したようなものであると個人的には思うのだが、そこで思考停止すると安っぽいニヒリズムに陥る…すなわち「セカイは無意味だ」という落ち込みから脱するには、現実世界を分解した上で新たな論理を創作して脳みそへ再投入しなければならない。

そうして、アクションを促すトリガーを発火させる必要がある。この能力について言えば、ある人とない人できれいに分かれる。それすらも無意味だと沈潜するのはまことに勝手ではあるんだけど、論理生成の前に分解ーすなわち脱構築というプロセスを経る必要がある。

自分はこれを無毒化(サニタイズ)と勝手に読んでいる。脱構築という言葉はいささか手垢が就いていて検索しても現代思想用語としての意味が先行してしまう。あと、やる気を無くす言動-外部入力される他者の世界線をという毒を透明にしてしまうという意味もある。

※自分を攻撃してくる外部の言論をすべてサニタイジングした上で、行動的新理論を積み上げる自己内省化こそが今求められているものなのだ…だいぶいい感じに怪しくなってきた(苦笑)

徒然草2.0
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