いろいろ間違っているかもしれませんが試論つーことで(汗
文章に残すということに、語るにすごい彼らはあまり考えていなかったようです。
語るにすごい彼らというのは、例えば…釈迦、ソクラテス、キリスト、孔子、です。
孔子については何か書物を書いたのか知りませんが、少なくとも論語は「子曰く」ではじまるとおり孔子がなにか言ったことを弟子がまとめたもの…だったかと思います。ソクラテスについても弟子のプラトンとかが熱心に書き残したものですし、キリストの言葉もパウロとかいろんなひとが聖書にまとめたわけですし。
釈迦の言葉も、その言葉が消えないように書きたい人がパーリ語(古代のヒンドゥー語?)とか漢語とかサンスクリット語などの周辺の言葉で勝手にまとめた。釈迦の言葉でない言葉で書かれていて、それぞれ内容が微妙に違っていると言われているし3パターンくらい重視する姿勢が異なる宗派がある。漢語の経典に至っては偽書とまで言われている。ようは、内容を正しく反映していない可能性があるということ。
コンテンツとは対機説法にある…つまるところ人と話をすることがクリエイティブな活動そのもの。人を作るというとなんだかおこがましいと感じるひともいるかもしれませんが…人は広義のコミュニケーションでしかクリエイションなことはできないと思うのです。
広義のコミュニケーションとは、たとえば本を読む。これも一方的ですが著者の言葉を自分にインプットするという意味でインタラクティブ性に欠けるためコミュニケーションとあまり言わないかもしれませんが、一種のコミュニケーション、情報伝達かと思います。誰かに何かを伝える行為がそこに発生していれば一種のコミュニケーションかと。例えば、極端な例ですが、全裸で公衆の前を歩くというのも視覚的にセンセーショナルな事を知らしめているという意味では広義のコミュニケーションだと言える。その広義のコミュニケーションは、人に何か思うことをさせているという意味で広義のクリーエーションだということ。
これが人と会話するコミュニケーション≒クリーエーションという価値だということ。これは書き言葉には無い価値があるということ。その人の上体に合わせて言葉を交わすということ。人は執着を持っているので、相手が堅物だったり○○だと言葉が通じない。話す方はよく考えて言葉を選ばないといけない。(まあ、言いたいことはそれだけです)偉い彼らは語り合うことを重視していた。本にまとめて「ほら、読め!」つーことをしなかったし重視しなかったってことは知っておいたほうがいいと思います。
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