戯言。勉強した人がシンプルに得をする世の中にすればいい

徒然草2.0

東進ハイスクールの林修が「勉強は贅沢だ。嫌ならやめればいい」と言っていて、私達はこの正論に何もいえなくる。

しかし、これで納得していいんですかね?

竹中平蔵も大学を無償化すると勉強しなくなるとも言っていました。

…これって消費税を増やしたら消費が減るという、とんちんかんと同じでは。

違う?

なぜ勉強にコストがかかるのだろうか?についていえば、教師がいれば教材がある、教育のインフラを整備するためのコストがかかるのは当然だろう。で、コストをかけているのに勉強したくないというのはわけがわからない。ただ、子どもの場合はコストをかけているのは通常は親であって、子どもと親の気持ちにミスマッチはどうしても生まれてしまう。それを林修先生は言っているわけだ。そこまでは分かる。

しかし、私達が勉強をするのは子どもや大人に関係なくて、別にお金・コストを支払ったからではない。勉強に見合ったリターンを得たいからだ。お金がかかっているから、勉強しようというのは不純な動機で、お金や別の対価を得るために勉強している。もしくは勉強をすることが楽しいから勉強している。

お金を動機にして学習をすることをおぼえるのはダメだという教育思想もあるが、おとなになればこそお金も重要なわけで普遍的かつ客観的な価値としてわかりやすい、お金を勉強の動機づけに使うことは何にも問題ない。

賢ければある程度のベネフィットが得られると分かれば、勉強が得意な人はそれで富を得られる。賢い人が商売が上手いという前提があれば、そこを社会制度で辻褄が合わせてなにが悪いんでしょうか。お金を得たければ学べばよく、それをタブー視した結果、学問が凋落しているなら逆手に取るだけなのにそれが世の中の仕組みとしてできない。

大人になってからも私達は勉強をするために当然お金を払う。それをさも尊いかのように子どもにのみならず大人もそう思い込みたいそうだ。けれど、何らかの対価を得るために私達は勉強するわけであり、もともと大人の勉強は利益を上げるためという動機もあるなら、単純に、勉強したら利益が得られるという関連付けを社会がすればいいだけだ。

日本人は勤勉だと外国人に言われていたそうでそれを信じていたそうだけど、最近のデータでは世界的に勉強しない民族だと言われている。それが事実かどうかはわからないけど、勉強をしても利益に結びつきにくい世の中になっているからで、それならば当然の結果でしょう。

というわけでシンプルに「勉強したらお金を得られて幸せになれる」という世界線を日本国内でつくりだせば好循環が生まれるし、逆にそうならないのは「勉強はお金がかかる」とか「勉強の動機はお金にしてはならないという思い込みのせいではないだろうか?と思うんだけど、違うんだろうか。

徒然草2.0
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