戯言。コンサバはクソ、そしてリベラルもクソ

徒然草2.0

はじめに。別に過激な話なんてするつもりはありません。鳥肌実と同じく政治的な主張はありません。

40にも年齢が近づくと「私」の終わりが見えてくるので、さてどうしたものか、と思うことが多くなっただけ。昔から仙人とか老子とか老人の達観した振る舞いにあこがれていて「早く老人になりたい!」と思っていたので夢がかなってきたのかも。

私が日本で生まれて気がついたことは、コンサバはクソということです。そして環境要因も相まってリベラル的な考えを持つようになり振る舞って気がついたことはリベラルはクソということです。同じクソならより私というか日本人に適性のある方を選ぶだけ。

政治思想や己の信念なんてそんなものです。

というか呪術廻戦の七海風に、何でも言ってみることができるなーと思っただけです。

ここまでは、ただの言葉遊びです。で、これからも、言葉遊びです。

「コンサバもクソ、リベラルもクソ、でも…」こんな話を老人に真面目にしたところで、戦後の自虐史観だと鼻で笑われるだけです。

古き良き日本人のふりをして、振る舞っているのがラクというものだと気がついたのは、わりと最近です。

そのうち言葉としてアウトプットしてどっちが自分の思想なのかなんて、分からなくなってリベラルはバカだと思ってみたりもするけど、すべて根拠のないとりとめのない話に還元される…まあ、還元しているのは私自身なんですが。

それにどっちを選ぼうともクソはクソ。

政治的な思想はどっちかがクソとせねば、考えて語っても面白くない。

だから、私は結果的に政治に興味がない。

他人に興味がないという言い方もできるかもしれない。

他人に期待していないという言い方もできるかもしれません。

…そういえば、自分で言うならまだしも、他人にあれこれ言われたくないという気持ちもある。誰しもクソだなんだと言われたくないもの。しかし、私の感性もですし、この文章も自己撞着している。

自己保身ゆえの態度かと思うところもありますが、もっと突き詰めるとライフワークみたいなもので根が深い。

頭の中に自己撞着したものがあるということを、人間は本来気持ち悪く思うようなのですが。

少なくとも私にはそういうものがある。

人に語ってもしょうがないことですから、私達はより自分や周囲の人間にもっともメリットがあるものを取捨選択をする。

それがパーソナリティになっていく。

これと決めた軸を持って磨く方が、面白い人間になるし信用される人間にもなるのだと思ったりもするけど、こればっかりは自分の特性なんだと思って諦めるしかない。

40代のテーマ…諦め(苦笑)

京都アニメーション放火殺人事件を起こした犯人とか、Xで○んこをさらした維新の会の音喜多駿も、なんかこの手の傾向がある人だと個人的に思って観察しています。…という意味では他人に興味がないわけではない。他人を通して自分を見つめるということは、他人に興味がないのかそれとも興味があるのかどっちなんだ?たぶん、興味がないんでしょう。他人を手段とするという話で言えば…理性や倫理を完全否定する気はないが、イマヌエル・カントは他人を手段に扱うなと言いました。でも、あれは不可能に近い。できるかできないかは、理性的であることよりも、その人の特性に寄るところが非常に大きい。後天的に可能=理性的な振る舞いは、可能だけど。それはどれだけの人が実践できるのですか?

ポエムでした。

徒然草2.0
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