戯言。グローバリズムの視点と個人的な視点

徒然草2.0

ふとグローバリズムの潮流に流れた方が楽なんじゃないかと思った。

…ということは自然な現象である。

グローバリズムと個人が対立するのか?というと、ふつうは「しない」と考えられる人が多いと思いますが、ここでの個人とは組織を無視した自分というようなニュアンスで述べている。もしくはグローバリズムを意識した個人と言って、グローバルと対比させてもいいかもしれませんが、いろいろな人がいて、国家(ナショナル)や民族(ネーション)と比較する人も、いるかもしれません。ようはこのへんの定義は人それぞれだったりします。

他にも、家族(ファミリー)や共同体(コミュニティ)や会社(カンパニー)や何らかの組織(アソシエイション)を設置して、自分との関係を推し量るかもしれませんし、中には友情や恋人との関係を強調して自分を語る人もいるかもしれません。逆にそれらのものとは無縁で、日本人という意識など普段の生活でほぼ思い浮かばない人もいるでしょう。多分そういう人は、グローバルな視点もないのでしょうけど。

グローバル、ナショナルやネーション、このあたりの存在と自分の関係について、線を引いてみるといろんなことが見えてくる。とくにグローバルな視点で見ると、地球を最善な方向へと近づけるための道筋が見えてくる。ナショナルやネーションの視点からすると、それに対立することもある。これを個人間でとどまっている人に伝えようものなら、陰謀論だと揶揄されるかもしれません。

グローバリズムを肯定する一庶民だって、居ても言いはずですが、私の周りにはそういう人が居ません。いや居るには居ます。たまに保守主義者の顔をして、そういう人は一体何者なんでしょうか。そして、何を使命に生きているんだろう。とふと思うことがある。グローバリズムの気があるが、でもグローバリストの流した情報を受容しているだけ(ただの受容体)で、別にグローバリストではない。裏返されたカードがあって、本命かな?と思ってめくるとただの受容体に過ぎないというわけです。どういうポリシーがあって、その発言があるのかな?と探ると、どういうわけかフロント(表面)でしかない。よく分からないけどお喋りしている。人の声がするから近づいてみたらラジオだったみたいな。情報発信の本体ではなくただのスピーカー。薄っぺらいだけの何かでしかない。居るようで居ない。

彼ら善人風の彼らには意思の一部が欠如している。

…だからこそ、グローバリストなのかもしれませんが。

逆に、ナショナリストの言い分のほうが、古き良き時代にすがっているようにも見えますが、安心感がある。(とはいえ、距離を置いているわけですが)自分の立ち位置ってどこなんだろう?と考えると、結局は普段はグローバリストとして居ても居なくても同じような存在として振る舞って、どこか不安を覚えて「ぼくは日本人だ」とナショナリストの顔をしたりする、極めて中途半端な存在だなと個人的には思っている。

いっそそのような意識をなくして、グローバリズムに完全に吸収されたほうが幸せなのではないか?とすら思えてくる。1なるものへの憧れを覚え拒絶するものや精神は、すべてノイズだと切り捨てる。ノイジーを「陰謀論者だw」と言うのは楽だし、ある側面では賢い選択をしている気がする。グローバリストに馬鹿にされなくなる。そうなると、多神教を自らのアイデンティティと自覚するナショナリストに対して違和感を覚えはじめ、違和感の正体はそうしてそれらはすべてノイズに過ぎないと言い切りだす。ようこそグローバリズムの世界へ!振り返らずにおいでよ!Welcome!いいかい二度と振り返ってはいけないよ。恐ろしい陰謀論者が包丁を持って追っかけてくるからね!

人類としてどちらの立場に立つのか?

私達はそれを自覚するかしないか、あるかないか、正しいか間違っているか、死ぬか生きるかに関わらず、どちらかを選択をしないといけないところまで来ている。

(これって、スピリチュアルなのかなあ?)

徒然草2.0
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