なぜ戊午の大獄の発端となった事件では密勅を薩摩藩に届けようとしたのか→薩摩藩が一橋派だから

徒然草2.0

歴史は勝者が作るもの。

…という言葉を具体的に捉えようとすると、やはり現代から近い出来事のほうが情報が多いこともあるため、より実感しやすい出来事を選ぶことになる。

…というか、そのほうが面白いというか役に立つ。

そうなるとその直近の歴史的な出来事は、…例えば、太平洋戦争とか明治維新とかになる。対立関係の構造を持った歴史は、勝者が広めたい歴史が喧伝され、敗者の歴史は闇に葬り去られる。というより敗者の歴史はif(もし)の中にしか存在しない。

そんなわけで、明治維新について詳しくなろうと思い調べているのだが、明治維新は短い期間(二重数年)の出来事なのに、分かりにくいことがいっぱいある。

例えば、安政の大獄は、天皇の許可なく日米修好通商条約を勝手に結んだ井伊直弼が、尊王攘夷や一橋派の大名・公卿・志士ら100人あまり処罰したことを指すのだが…孝徳天皇の密勅を薩摩藩に届けようとしたのはなぜなのか?

たぶん回答は「薩摩藩主の島津斉彬が一橋派であるため」ということになる。

尊王攘夷が薩長の明治維新=テロリズムの口実である、というようなことを言っている人がいる(というかその手の人の本を読んでいるのだが)、朝廷側も薩摩藩を頼りにしているため、持ちつ持たれつという関係がもともとあることは否定できないと思う。

もともと島津藩の島津斉彬は将軍継嗣問題で一橋慶喜を継がせたいと考えていたひとりで、徳川家茂を継がせたい井伊直弼らとは対立して挙兵する計画すらあったという。

しかし、その後に薩摩藩と一橋慶喜(徳川慶喜)は、薩長VS幕府で慶喜を将軍から下ろそうとして、戊辰戦争へと突入した。結局は幕府を政治の世界から駆逐する勢力に成り代わっている。

この頃になると関係性が変わってきた。ということになるのだろうか。このへんのことををふまえると、戊辰戦争がまた違うドラマに見えてくる。

結局のところ戊午の密勅事件では薩摩藩主の島津斉彬が食あたりで亡くなり喪に服していたがために、水戸藩に密勅が下賜(かし)されることになった。

Wikipediaによれば、安政の大獄は倒幕の遠因になったと書いてあるが、出来事の起点を決める場合はどこにするかで、だいぶ歴史の意味合いが異なってくる。これがまた島津斉彬が生きていたら水戸藩の騒動よりも派手な闘いが井伊直弼との間に繰り広げられたのかもしれない。戦国まで遡れば、井伊直政は関ヶ原で島津家に受けた傷で亡くなっており、島津豊久も島津義弘を逃がすために戦士している。それはまあ、さておき…

井伊直弼自身は日米修好通商条約の回答期限が迫っていたのに、思い通りに動いてくれない朝廷にやきもきして、やむを得なく条約の締結→反対派を安政の大獄に至ったところもある(むかしNHKの歴史はその時動いたで井伊直弼の話を見たことがあるせいだが)

明治維新は、黒船来航の後に日本の内輪で揉めに揉めた過程と結果であって、先の見直しが非常にたてにくかったし直近の出来事(たかだか100年くらい前)なので、いろんな想像ができて面白いことこの上ない。

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