まあ、…そういう話が通じてしまうのは日本人だけらしい…ですが。
法華宗徒やキリスト教徒にタイトルのことを言ったら、
一笑に付されるか些か怒られるかあきられるかのどっちかだと思います。たぶん。。
あえて日本民族(日本の固有な民族など無い!という主張はさておき)を自画自賛をすると…
日本人はメタ認識がもともと得意な民族なのかもしれません。
世の中の変化を受け入れる無常観なくして、生きてこれなかったのかもしれません。
そこまで深刻ではないにせよ、
子どもにもその手の無常観が自然と親というのか風土というのか分かりませんが、
日本に住んでいれば自然とそういう意識が備わっていくもので。
日本という共同体で生きる知恵だったのだと思います。
その手の混合思想のパターンを持っているため、
外国の考え方を取り入れることにあまり抵抗がない…というより相対化してしまう。
まあ「世界は流転する」ってだけで、神話にはよくある表現だと思ったりもするので、
仏教的無常観などと言って、ことさら国語で民族的有意識化するために、
「徒然草」や「平家物語」を取り出さなくともいいのかも。いや、必要か?
米国の大統領は、右手を掲げて左手を聖書にのせて神に誓いますが…。
誓うのは神であっても、聖書の教えを信ずるという意味では、これって聖書に帰依しているってことですよね。
(そんな話をすると、あくまで聖書への宣誓は神に対しての宣誓であって聖書=神ではないと言われるかもしれないけど)
コーランを燃やす漫画を書いただけでイスラム原理主義者(と言って良いのかわかりかねますが)テロ行為をけしかけられる。ましてや実行すれば一方的に虐殺されるということもある。イスラム原理主義やキリスト原理主義の争いは目もあてられない。第三者(日本人)から見ていれば、何も変わらないと言えなくもないのではないか。より具体的に言えば…聖書を大切にするのも、神に帰依するのも、お経に帰依するのも、、、人間の意識の流れとしては極めて勝手なことを言わせて貰えば、大きく隔たりがない気がしている。
あらゆる宗教を信ずる者に対して、それは似たようなものだ…という共感を迫る気も揶揄する気もありませんが、概念操作の違いだけで心の安寧を得るスピリチュアルな観点から言えば大差はない、という了解に至る。
日本スピリチュアル界の大御所である美輪明宏(?)なんかも「南妙法蓮華経」って唱え続ければ元気になると言っている。元気になる理由は、そのお題目が、そういう「音波」で体を整える効果があると言っている(アヴェ・マリアも同じ効果があると言っている)これを科学的に研究している人もいる。法華経に限らずお経でもマンダラ=真言でも何でも良い。何とか教とか何とか密教とかにわざわざ入信する必要はなく、自分で唱えてもいい。どうしても形から入りたいということであれば、法華経のお経をとなえているお寺で「音波」に一度他人のエネルギーをあてられるといいと個人的に思います。縁があれば入会案内を渡されるかも。ていうか別にベートベンやモーツアルトでもいいけど、自分で口ずさむことができるものがいいぐらいの話。脳内物質が出ていい脳波がでればいいだけ。
以前からのようだが石原慎太郎などは法華経に関する書籍を何冊か出していて気になっている。Amazonレビューを見ていたら老年だから仏教をやりだしたとか書いてあったが…いや、そうじゃない「石原慎太郎氏は霊友会と 宗教団体と蜜月関係な政治家たち – ライブドアニュース」政治家時代から霊友会や立正佼成会などと関わっていると言われており(詳しく知らないけど)いずれも法華三部経を大切にしている宗教団体である。
美輪明宏も石原慎太郎も、もともと法華経に帰依している人なのだ。
Amazonレビューでそれを知らない人がいておどろいたわ。
まあ、自分は法華経に興味があるなんて話をしても通じないですからね。
都内で言えば池上本門寺には力道山の墓があることで有名だけど、自民党系の政治家の墓もいっぱいある。
もともと法華経に限らず大乗仏教を信仰ないしは先祖を祀る信仰に用いている人などいくらでもいるわけで、美輪明宏も曹洞宗や法然=浄土宗やカトリック系の学校に持って行っており、たまたま法華経の音読がツボにはまっただけなんだろう。仏教でもキリスト教でもいいが信仰していることが保守派であり、伝統やら仁義やら古典的な伝統派を自認する以上は、この手のものを取り入れない理由がないと私は思う。今は違うかもしれないが欧米の人が「宗教無くして子どもたちにどうやって道徳を教えるのか?」と思うとか思わないとか…逆に、私は政治家とか人のために仕事しているという強い目的意識を持っている人に問いたいのだが「信心や慈愛なくして、どうして政治活動ができるんだ?」と言いたいね。
極端なことを言えば「宗教なくして政治はできない」し、宗教がない政治家は、汚職つまり自分の利益のためだけにしか動けないのではないだろうか。まあしかし、我が国は政教分離原則を憲法で標榜している以上は政治家が宗教的スローガンは叫べない。でもそれが、歪んだ結果になっている気がしないでもないのは機能性だろうか。
宗教的な政治家というと硫黄島で膝を垂れていた安倍晋三首相が思い浮かびます。それを無神論者の立場からするとややもすれば拒絶反応を感じ得ないという気持ちもわかる。
…でも、「政治家には宗教が必要」少なくともその手の信念がないと逆に心配で長続きしない人なんじゃないか。私はそういう結論に至るんですけどね。
だいぶ記事タイトルから話が逸れましたが、特定の文章に対して誓いを立てるという行為を人は昔から大切にしてきたし、そういったことはもう少しわかりやすくしたほうがその人となりその人の方針がわかりやすくていいのでは?そういうことをしたことがないひとは、そういったものがないよりあるほうがいいのでは?言ってみれば、そんなところです。
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