戯言。信じるものが救われる理由というか信じないといけない理由。

徒然草2.0

※仏教とキリスト教の話から入りますが、あまり宗教は関係ありません。無神論者とか無宗教者とかもあまり関係がありません。どっちかというと論理とか哲学とかの話のつもりです。

はじめに。仏教のお経の多くは南無…ではじまるそうです。

…この南無は、サンスクリット語のナムとかナモという音の言葉を漢語にしたもので「帰依」をするという意味のようです。帰依ってなんぞや?となるのかもしれませんので仏教を知らない人には単純に「信じます」という宣言なのだ…ととらえればよい、と単純化してもいいと思います。そんな言い方をする人が最近は多いと思いますし(まあでも、帰依のほうが、自分を擲って信仰の世界へ飛び込む出家イメージ・洗礼イメージがあると、勝手に受け取っていますので(辞書的な意味は知らないですが)表現としては、帰依のほうが良いと個人的には思います)。

あと、お経ではないですが”失敗”した時の感嘆詞として「南無三ッ!」という時がありますが、これは「南無三宝」の略語だそうです。

南無三ッ!って言っている実世界の人は見たことがないのですが…映画やゲームでならあるかな?パッと思いつかないですが、ワイルドアームズセカンドイグニッションのブラッド・エヴァンスというキャラクターが言っていたのをなぜか思い出しました。その時にはじめて「南無三ってなんだろう?」て思ったので。…まあ、どうでもいいですが。強盗して失敗したとか。博徒が失敗したとか。なんだか、そういうシーンが思い浮かびます。ブラッド・エヴァンスもそうですが、かつて「英雄」と呼ばれていたが現在は「戦犯」という設定なわけで、つまりどちらかというとこの「南無三」という言葉は罪人/囚人つまりはヤクザな人が言う言葉だという感じはします。ヤクザ=辛いことが沢山あった人が、大乗仏教の教えに触れたことで、この言葉を口にしていると捉えてみると感慨深い感じがしないでもない。この「南無三」という言葉で、その人の思想と背景をある程度は伝えることができてしまうところがあるのかもしれません。刑務所の外の世界である「娑婆(シャバ)」も仏教用語ですし。

坊主も南無三ッ!て使うのかもしれませんが、信心深くない人…というか昔は救われる対象から外されていた人々が口にするようになった‥というほうが自然なのではないかと思います。

…で、南無三宝の三とは何か?というと、仏教で大切な三つの宝だと言われている「仏」「宝」「僧」を意味しているそうです。

…なので、仏教のすべてを信じるよ!失敗を打ち消してくれる時のおまじないみたいなものだと思われます。

i believe all buddhism.みたいな感じ?でしょうか。

だから、南無阿弥陀仏は「あみだ仏を信じます」で南無妙法蓮華経は「法蓮華経を信じます」となる。

これは何も仏教だけではなくて、信じるところからスタートするのはキリスト教などの一神教のバイブルでも同様。神がいるかいないかとか、信仰を持つか持たないかとか、そういうことよりもまず「神を信じるか信じないか?信じないものは救われない、信じるものは救われる」と迫ってくるわけだ。

なんにせよ、Believeするところから初めないといけないということ。

仏教の「南無三ッ!」にあたる言葉はキリスト教の「oh my god!」でしょうか。調べてみると聖書に「神の名をみだりに唱えるな」とあるため敬虔なキリスト教徒ほど使わないらしい。映画とか見ているとわりと出てくる気がしましたが…過去のことになるのかな?ミセスがミズに置き換わっていったような感じでしょうか。…逆に言えば無神論者とは言わないまでも、キリスト教教育を受けたが信仰の度合いが低い…つまるところ自己都合的で使っている軽薄な人が使う言葉と言えるのかもしれない。ただ使わなくなっているということなら死語になっていくのかもしれません。どうなんでしょう?

…というわけで、信じるものが救われるのは、神や仏が救ってくれるからではありません。いや、救ってくれるかもしれませんが、自分はそういう外部の存在があるという確信を持っていません。でも、信じないと救われません。これは正しい。なぜなら、信じることをまず宣言して守らないことには、その後に続く何らかの教えを実践することをしないからです。

信じないけど、神や仏が救ってくれる…ということが仮に有り得るのでは?と疑問を持つ人もいますが、それなら信じなかった内容にその人はふれていないことになるわけで、外部要因としての神や仏が勝手に救ってくれているという自覚を持つに至ることはありません。また、信じることは、何もすべてを受け入れるということではなくて、感じたことと柔らかく表現してもいいのかもしれません。とりあえず受け止めたことぐらいのニュアンスでもいいのかもしれません。そうした信じる受容をへないと効用は認められません。私達は何某かを「信じる」より他にないわけで「信じない」のなら無軌道・無自覚もしくは停滞・猜疑をするより他にない。そういった時期が人間にとってすべてが無駄ではないと思います(特に不可逆な状態を引き起こす行為をする前には悩んで慎重になったほうがいい)が「信じる」というのは前に進むためには、仮でもいいので必要な行為なのだということ。

何でもいいのですが、自分の状態が「何を信じているか」「何を疑っているか」をはっきりさせる必要があります。例えば停滞している場合は「信じていない」ので「信じる」ことから初めないといけないということになる。何を?ではありません。そのへんは情報化の時代です。対象はいっぱいあります。私が提示すべきものでもなく”重要なこと”はたぶん本人が知っています。だから「何を?」ではなくて、信じるか信じないか。そのうち「信じる」を選びとりたい。その自覚が必要。

徒然草2.0
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