オランダ北部フリースラント州のデニーセさんが2021年に21歳にして安楽死で亡くなったという記事を見た。元記事があるのかと思って、私なりに検索キーワードを選定したが、そのような記事は見当たらなかった。
デニーセが一体どのような心境で亡くなったのか定かではないし、彼女の肩に掘られた入れ墨「Don’t judge(決めつけないで)」に意思表示がされるように、外野の人間があれこれ言うのは筋ではないのかもしれない。
しかし、他人の苦しみについてあれこれ言うな「決めつけないで」と言う彼女の主張はわかったが、本人はなぜ自分の苦しみを「決めつけた」のだろうか?些細な悩みだとは言わぬが、母が言ったように死ぬほどのことだったのだろうか。
アスペルガー症候群ゆえに社会不適合者である自分が嫌になって、発作的な自殺願望を持ったように見受けられるが、それならば反社会的に生きていける可能性もあったのではないか?そういうお節介はデニーセが嫌がるきめつけに過ぎないが、もう少し長く生きて経過を見ていれば「生きていてよかった」と思える時がきた可能性も否定はできないのではないか。努力すればどうにかなるというような綺麗事を言うつもりは毛頭ないのだが、(いや、本人がその手の言葉を聞きたいいのならいくらでも励ましてもいいけれど)何らかの理由で全身が自由に動けないわけでもなく、常に体に苦痛が伴うような病気ではなく、彼女の場合はソーシャルな原因が大きかったように見受けられるだけに、この自殺容認は私的に到底受け入れ難いものがあり、なんども転載された記事を読み返してしまった。
日本にもしオランダのように安楽死制度が導入されたら、雪崩のように死にたがる人が溢れる気がする。少なくとも先進国の中でも一定数の高い割合で安楽死が出そうだ。感覚的な話になるが、その中には不要な死も含まれる気がする。だから安楽死の導入は慎重を期した方が良いのではないか、と考えている。
この記事の内容は極めて慎重である様だが、わりとリベラルな考えを持つ私であっても薄気味悪いものを感じざるをえなかった。死ぬ権利は認められていいと思う人間なのだが、この記事だけは違和感がある。死因がソーシャルなものだからだ。ソーシャルさに対する己の反ソーシャルさに悩まないわけではないが。それを理由に自死を選んだら、私自身の存在意義も無くなってしまうから、自分ごとのように捉えていると言えばそれまでなのだが、生きるという行いは死ぬことと対極にある行為(というか生の反対は死ではないのでは)だし、それに人間の自由意志で死を選ばせることは少なからず誤りも含まれるはずだ。
私達はそう簡単にくたばってはいけないし、社会不適合者もくたばらなくていいように、社会をデザインすべきだと個人的に思っている。
自分もいい年になってくると「好き勝手にすればいいじゃないか」というか突き詰めると「好き勝手にしかできないじゃん」とすら思えてくるわけで、お節介を言えば「なんで20代で悩んで死なないといけないの?」と朝までストロングゼロを片手に問いたい。30分で飽きて寝ているとは思うけど。で、まったくもって根拠はないが「25歳まで生きてから死ぬのを考えても遅くはないよ」と死に急ぐ若い人に言いたい。というわけで二軒目に行こう。人生はしご酒。
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