某所のオフィスで、職場の先輩と同僚が笑いながらこう言う。
「誕生日、楽しみにしとけよ!」
何かいいものでもくれるのだろうか。
とにかく祝ってもらえるのが嬉しくて、ほっこりした気分になっていた。
……ところが夜中に目が覚めた。すべて夢だったようだ。
よくよく考えてみれば、その職場も知らない場所だ。
先輩も同僚も、全員見知らぬ人たちだった。
なぜ、こんな夢を見たのだろうか。
最近、ショート動画のショートコントをよく見ているせいかもしれない。
あのての動画は、見たこともない俳優が、見知らぬ設定の中で自然に物語を演じている。
その“場面”に自分も入り込んでしまう感覚があって、その延長で夢を見たのだとしておこう。
しかし、自分が見ている世界は、ある意味どこまでいっても“虚構”だ。
目を覚ませばすべてが溶けるように消えてしまう。
でも、それは残酷というよりも、ちょっとした実感のある幻である。
過ぎ去った過去と同じで、「ああ、いい夢だったな」 と思えばそれで済む。
存在していたように思えたものが、実は最初からなかった――
そう言われると絶望的な話に見えるかもしれないけど、
実際のところ、失うほど固い“現実”なんてない。
仮に泡のように消えたとしても、そのときの温度感や嬉しさはちゃんと自分の中に残っている。
それに、存在しない先輩に誕生日を祝ってもらえなかったとしても、別に損はしていない。
むしろ、タダでいい思いだけした と考えればお得だ。
それにしても、「夢の中であなたに会いたい」みたいなラブソングが成立するのは、夢にそれだけ“実感”があるからだと思う。目が覚めた瞬間には全部消えてしまう、いわば“浦島太郎状態”になったとしても、過ぎ去った夢の中に素晴らしい時間があったのなら、何もない人生よりずっといい。
たとえば、本当に不幸な人生というのは、
夢すら見られないほど余裕がない人生のことかもしれない。
だったら、夢心地でいられる時間があるのは、それだけで幸せではないだろうか。
現実に残らなくても、夢の中で誰かに祝われたり、恋をしたり、笑ったりできるのなら、
それはそれで十分じゃないだろうか。
……とふと昨晩にいい夢を見たと余韻にひたっていた。

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