「他人のために生きる」と言いますが、それだと他人にうまく使われるているだけに過ぎませんし、もともと自分の方がかわいい。
そうなると「自分のために生きる」と言いうことになります。
しかし、この考え方は一個人が自分のささやかな幸せのためだけに生きていれば問題は有りませんが、基本的には腐る考え方だと思います。
例えば、あなたに権力があり、法律にもふれず…つまりなんの制約もなしに、利益を独り占めできる行動ができるとしたらどうしますか。
社会のためにその利益を手放したところで、さらに条件を加えて自分のものにしない場合は誰かに奪われてしまうとしたら?
奉仕活動をする聖人君子ではない限り、実行に移して自分の利益の最大化を図るでしょう。それが、理にかなった行動です。韓非子は義理や人情より「利」をとるもの(韓非子)
根底に「自分のため」もっといえば「自分の利益を最大化するため」という考え方は、わたしたちが日頃から憤っている利権政治家となんら変わらないわけです。というより、自分のために生きていれば、自分たちの利権を作り出すは必然というもの。
…というわけで、一個人が利益を求める精神を肯定している限り、政治体制が変わろうが社会は変わらない。全体が向かう根本的な原則・因果は、一個人の集合意識というか欲望に過ぎない。であるとすれば、もし社会が変わらないといけないとしたら、一個人の「自分のため」に働くというのを辞めないといけなくなる。下から内から何らかの方法で改善するのか、上から外から法と罰を被せるのか。大別すると方法は2つあれど、一体どちらが現実的か?って話でしかない。
なぜ私達は働くのか?
「お金を儲けるため」「自分のため」「自分の利益のため」すなわち個人の利益のため。しかし、これだけではダメで”腐る”から、私達はもっとも優れた統制機関・管理機関を自分ないしは社会に課していかないとダメだと思うのです。
p.s.政治家ははぜ利権政治を行うのか?と思ったのだが、自分の欲望に正直になって演繹的に理論の展開をすれば、火を見るよりも明らかなことあり、疑問に思うようなことでもなかったのだ。ということにふと最近気がついた。思考は2パターンあって、帰納的な(例えば)文学的な論理展開も可能だけど、どうも自分の場合は演繹的な論理展開を好む。良い悪いの話じゃないけど、たぶん第三者の多くは中身はないし説得力もないと思われるのだが、自分にとって思考回路がそうできているのか、そう考えるしか他にない。
思考の限界≒可能性の限界に達しているなー、とも思う。そういえばキングダムの韓非子と李斯の話を見たが…韓非子がちょっと冴えなくて残念だったな。あと毎回思うけど李斯も影が薄いよな。呂不韋のようなカリスマ性も昌文君の知性もない。そういえば戦いばかりに目をやるの疲れてきたので、文官だけの戦いを描いた漫画とか小説ってないのかな?(あるでしょうが)これといって話題にもならないのだが、(地味だけど)探してみると面白いかも。
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