「社畜に生きる道なし」と聞いて、あなたはどのように捉えるだろうか。たぶん、この言葉には2つの意味で、捉えられる気がしている。つまり、社畜は奴隷であり、生きている甲斐がないということ。企業内にいても、自分は社畜ではないという意識で生きている人もいる。独立精神が旺盛で脱サラした人も、ポジティブにこのような言葉を言うかもしれない。
年代や立場(正社員であるか否か)で変わってくるかもしれないし、自分や他人が言うシーンによっても多様な捉え方があるわけだが、いずれにしてもネガティブな意味で言うのは個人的には頷けない。
これは皆そうではないだろうか。
しかし、オレは社畜だ仕方がない。と言う私より上の世代がいるのもまた事実だし、そうして生きていけたのならば、その生き方を否定するきはない。戦略の1つ。
ただ、自分の場合で言えば、そもそも社畜という生き方は大変リスクだという結論に至ったのだが(別にフリーランス最高というつもりはなく、働き方を決める考え方ではない)、市場評価される汎用スキルを身につけるべしというポジティブな意味で捉えていたい。
立場を超えて普遍的な事実だと思っている。
…ということが、これまた意外に浸透していない。
つまるところ社畜か否かという議論は、本人の思想というより戦略の判断に過ぎない。
はやいはなしが正社員にあぐらをかくひとは未だにいる、それが意外に若い人にも多いということに驚いたりする。逆に年齢がいっている人のほうが会社との関係性を自分で「割り切ったもの」として扱っているところがある。そういう人には私自身のスタンスが一応伝わるのだが、未だにそういう感性が微塵もないひとがいるのを見ると、おせっかいながらそれって損じゃないかな?と思ったりする。フラットに考える=ゼロベースで自己と会社との関係が捉えられていない。しかし、会社として、そういう人材が欲しいと思う経営者や採用者も実際にはいる。イケている企業ほど「フラットに考える」人を肯定的に捉えるものだとか、個人的に思っている節がある。
自分の仕事が奪われることに怯え、企業活動の改革性を否定し、都合よく自らが持ちうる特権を肯定する。フラットではない地平に立って行動する。仕組み上それが通用するならば利用すれば良いが、その仕組がなくなっても私達個人は生きられるようにしておかないといけない。
「脱社畜化」というのは単にその思考の練習である。
まあその企業が年功序列化させた組織的水平硬直が是とすれば、企業理念=企業的価値観に合わせる他はないのだが、それって個人の自由性を棄損してまで付き合う道理ってどこにあるの?と思うが、昨今その辺をゆるくする代わりに給料を下げて人材を付かず離れずのバランスをとっているのが関の山じゃね?周囲の人の話を聞いているとそんな気がしてくる。
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