戯言。世間は虚仮にして、ただ仏のみこれ真なり

徒然草2.0

この世は仮象であるとか遠離穢土(よごれたところ)だとかいうのは、だいたい方便であってどうでもいい。死んだ世界が素晴らしい、とする考えもあるが、それも間違った解釈だと思う。

この世は素晴らしい、とする考えもあるが、厭世感に苛まれている現代人にとって、到底受け入れられない。どこ見てそう言えるんだ?と冷めてしまう自分がいる。まあ、現実をよい解釈することを全否定するつもりはないし、自分もできれば肯定したいところだが、今回ふれたいのはそこじゃなくて、「この世は仮象である、だらこそ○○である」という論理に一体どれぐらいの価値があるかについて考えたい。

現世を捨ててることがよいことになる…だけでは、オウム真理教のポワの思想や、悪い意味でのイスラム原理主義のジハードのシナリオに似てくる。

…これに対して、現実をよいものにしていこうという思想がある。

キリスト教のプロテスタントや法華宗なんかがそれにあたる。つまり現世利益という考えもあるが…これが優れているというのもおかしい。どちらもおかしい対比。

現世で自分だけが幸せになれば、それでよいというような解釈をする者もいる。

…そうじゃなくて、現実は儚いからこそ(細かいことに執着せず)善く生きるべきだ、これが正しい解釈ではないか。

「正しい」の根拠はなに、ってことには長くなるのでここではふれないけど、理想の社会や人間性の探求という観点で捉えてみるとそーいう価値観に行き着きかないですかね。

宗教を誤って解釈する人は、天国は弱者の幻想だと言う人もいるが、これも同様に現世利益と来世利益の二元論で思想をわかった気になっただけ。(そもそも、現世利益はともかく来世利益は対義語ですらない)神を信じない(=天国がない)と考えるものが、現実に何か善いものを残そうとする理由付けができなくなってしまうではないか。どうせ死ぬのになんで私達はがんばっているの?という問いにあなたは上手く答えられますか?

いずれにしても思想を簡略化して論理的にわかろうとするから、単純な解釈になって分かったつもりになってしまう。

相対主義者にとっては「正しい」が分からないし、世の中は自由である方がいいというと、お互いの権利のぶつかりあいをどう収拾するのか?にかまけることになる。自由主義者なのに「権利」が分からない人がいる。

ちょっと話がそれたが…自分の身の回りにおいて、自分がどう考えて行動すべきか?という観点で考えてみると、現実は儚いものだ「世間は虚仮」であると捉えているくらいがちょうどよいのでは?と思ったりします。

われながら老人の思考になってきたなぁ…。

徒然草2.0
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