夜中に目が覚める。脳内に半径がバスケットボールほどの巨大なヒルが一匹うごめいている気がする。頭蓋骨を筍のように飛び出して触手をうねうね動かして。「私は一体何を求めているんだろう?」自分でもよくわからない。自分の意志とは関係ないのに、それもまた自分の一部として数える他にない。自分に意志に反していると感じるものは、とかく自分とは切り離したいものだ。夜に一時病的なモンスターというか奇異に取り憑かれた感覚に陥りませんか。夜中のラブレター現象の怪奇もこれに秘密がある。誰もがそのような傾向を持つもんだと思っているが個人差はあるかもしれない。この勢いにまかせて身を委ねても、明日無気力になるだけの無駄意外の何者でもないやつだと思っているが。日中これを自由に出したり引っ込めたりできれば、少年ジャンプの主人公になれるのに。
ノクターンは日本語で夜想曲とよばれていて、夜の曲という意味になるのかもしれない。wikipedia「語源はラテン語で「夜の」または「夜に属する」を意味する形容詞nocturnusである」が、似た言葉にセレナーデがあるそうだ。セレナーデは日本語で小夜曲という。曲の雰囲気を指すカテゴリではあるが決まった定義はない。セレナーデは「日常の」という意味で別に夜を意味しない。朝に聞く曲とか恋人を窓辺にいざなう曲または窓際で恋人に奏でる曲だという表現をする人もいたもが、定説はなさそうだけど1人ぐらいから弾ける曲を指す。というわけでいくつか代表的な曲を聞いてみたが、分かったようで分からない。
戦国小町苦労譚(せんごくこまちくろうたん)はドラマ化したら面白いというか、はずれのないドラマになりそうなのに、何で誰もやらないのだろうか。
「涼宮ハルヒの憂鬱がなければ京都アニメーションの事件は起こらなかった」と誰も思わないであろう。被害者遺族に反省の言葉を述べたまではよかったが、、人に反省させるってとても難しいんだな。というか反省っていうのは、すごい行為なのかもな。猿でもできるなんてCMがあったけど、あれのなんと軽いことか。
ラジオチャンネルでバナナマンが似てない小林旭の声マネをしていて気になった。まあ似ていないかどうかを見極めるためにYoutubeでぐぐっているんだけど。『昭和・男道』「冷や酒二合 呑んで抑える 肚の虫」冷や酒がとりあえず2合のみたくなる。いいウタだひかる。そういえば「人生は我慢比べ」って価値観がわからないな。いや我慢していることが多い人生ではあるけど、人生そのものを我慢として捉えるのは違うような。徳川家康が「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし」とは言いましたけど、我慢すべき時であると自分を諌めたりしねーな。たんに合理的な判断で我慢しているからしているだけで、したくなけれりゃしないのが人間じゃないかと。理性で抑えられないときもあるわけど、そんなに自分の考えを私は過信していない。別に感情的に振り回されないとかいいたいわけではないし価値観がわからないというわけでもない。人生は我慢するもので我慢せずに負けたらダメな勝負だという捉え方をするほど自分は人生に真剣じゃねーな、とふと思った次第です。
アダモちゃん=島崎俊郎が心不全で68歳でなくなった。アダモちゃんと言われればわかる程度ですが。
2023年に財津一郎という俳優・コメディアンがなくなったが作曲家の財津和夫のことだと思っていたことに気づいた。自分の頭の中で静かにお別れの曲として「サボテンの話」が流れていたのだが(汗)。
笑福亭鶴瓶より弟子の笑福亭笑瓶が先に亡くなるなんてな。高木ブーより早く死ぬドリフのメンバーがいるといって誰が信じましたか。死んでいく有名人に、その手の人の名前に無頓着な私でも知っている人がいることが多くなっていることに、自分も年をとったと思うこの頃。
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