「人生の役に立つ聖書の名言」佐藤優を読んでいる。佐藤優の本はなんだか自分に相性がいい気がして、見かければ手にとってよく読んでいる。それに加えて、カール・バルトという人の「クリスマス」宇野元[訳]というのも呼んでいる。以下はただの読書メモです。
そもそも、佐藤優がなぜ同志社大学の神学を学んでいたのかって、あまり数ある書籍をいくら眺めていてもこれって記述がなくてよくわからないんですが。いや、いたるところで語ってはいるけど、なんかこう「ふーん」って感じになって自分の腑に落ちない。…ちょっと個人的にとても気になるところなんですが。ひかかっていたが、聖書解説/聖書理解を見るとダイレクトに判る。
そういえば宮台真司もキリスト教に結婚と共に改宗したそうで、思想家ってやっぱりキリスト教が好きですね。佐藤優が神学を学ぶ道に至ったのもこの人の本を眺めてみても本人の「興味本位ぐらいな感じ」でしか触れられていないことがほとんどな気がします。キリスト教徒ではない家庭で育ちキリスト教徒ではない私からすると、そのことにふれないクリスチャンに対して違和感を覚えるものではないでしょうか。ふつうは、なにか原体験みたいなものがあって宗教を学ぼうと思う気がするんですけどね。で、そこに触れて欲しいとか勝手に思ってしまう。それらすべて私の思い込みやエゴかもしれないけれども。
という私も別に宗教家の家に生まれたわけではなく、どっちかというとそれに反する思想の影響を受けた気がするんですが、キリスト教と仏教とそれらの亜種が気になっている。それをなぜか?と問われても説明が難しい。
1つ言ってしまえばメンタルというかメタフィジカルなもの…目に見えない世界の方が自分にとって大事に思えたから。ということになるのでしょうけど。
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キリスト教っていうのは読むと分かるんですが、あれは自己啓発です…というか、あまり詳しくありませんが自己啓発本というもののほとんどがアメリカから来ているし、キリスト教をベースにしているというものがほとんどだと言っていいかと。
日本人の書いている人が意識してインスパイアされて書いている時もあれば、そうでないものも含めてなんらかの影響がだいたい見られる気がする。法華宗(≒創価学会)の教えもまた然り似ている。あとは、映画や音楽も当然ながら自然とキリスト教の文化がベースになるんで「似ている」と思うのは当然なので、どっちが先にあったのか?という話になれば、キリスト教のほうになる。日本人の中にもそういったものにふれていれば知らず知らず自然とキリスト教的な考え方が入り込んで行くし、むしろそういうものに積極的に触れていけばこそ、キリスト教的な思想に自覚があるにせよないにせよならざるをえないわけだ。
客観的というか附置的にというか、一歩ひいて自分の中や自分が見ている教科や作品がどういった言葉から来ているのか?知っておきたいと思う。
逆説的な…悪く言えばだが(イエスや使徒が意図して)矛盾していると受け取られてもおかしくない記述が聖書には多い。ゆえにわかりにくい。人間の二重性を意識していると言っても良いのかもしれないが。むしろ其れは当然で聖書は異教徒、並行して読んでいるカール・バルトの記述によればキリスト教者ではない者は「俗人の自認がある人」であるらしい。そういった人に投げかける言葉なのである。ようは否定ないしはキリスト教から距離とっている人に対して届く言葉に設計されている。パウロもまたユダヤ人のパリサイ派としてキリスト教を迫害していたが、キリスト教に改宗してユダヤ人に迫害される身に自らを置いてこれを良しとしたわけで、パウロの逆襲劇として捉えられるものかもしれない。
以下の一部が最も気に入った一文↓
預言者ニーチェの言葉を読むとキリストの言葉を追いたくなる(甘ったれの愚痴)。甘ったれの愚痴というのはニーチェに対しての愚痴である。アンチクリストを語る人の本を読んで聖書を読み解き心の教会を再興してしまう。むしろ、それこそがニーチェの狙いだったのではないかとすら疑う。すべてはニーチェに対する愚痴に過ぎないが。
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