「国家の品格」の中で藤原正彦が自由という概念は不要だと言っていたのが頭の中にいい意味でひっかかっています。
そのとおりだよなあ…と思ってしまったということです。
日本に古くから自由という言葉はあったようですが「徒然草」の中でも身勝手という意味で使われているみたいです。
まあ、現代日本でも自由は身勝手という意味でも使われます。
しかし、現代においては責任がある自由などと、欧米式の民主主義における重要な概念としての意味もあって、言葉の意味を巡ってはコンテキスト(文脈)によるものだと解釈されています。
私もこの自由が嫌いではないというか、古代ギリシャでは奴隷階級に対して自由な市民として知識や義務を負うことを是としていたことから、哲学(≒リベラルアーツ)をするということ、知識を持って社会に対して働きかけていくために、知識とセットもしくは義務とセットである重要なものだと思っていました。
ジャン・ポール・サルトルも「(人は)自由であるように呪われている」と言っている。
否が応でも自由を私達は受け入れないといけないわけです。
しかし、人間にはそもそも自由がありません。
…というか自由があるというのは突き詰めて考えてみると、大変おかしいものでもあります。
例えば、自分の認識というものは自分が見たい現実を見ているだけで真の客観性なんてものはありません。客観性とは人の視点ではなくて言わば神の視点。私達がそのように呪われているのは、エデンの園で禁断の果実を食べた呪いなわけで、神が居なくてはそもそも身勝手意外の欧米式概念は成立しないことになります。しかし、ニーチェに言わせれば、神は死んだわけです。つーか、そもそも多くの日本人からしたらキリスト教の神を理解はしても信じていませんから、自由意志があろうがなかろうがどうだっていい。そんなものがあろうがなかろうか、ただ生きていかなければならないわけで、有効だか無効かわかりません。「自由」という概念が、有用だか無用だか、わからないものだと西洋人が認めていますものを、そもそもそんな考えがない日本人が分かる方が変。日本人は外国と外国かぶれしたリベラルな日本人によって、一神教の理論は合理的で”優れている”と思い込まされてきた。しかし、よくよく考えてみると私自身もこの考えって「不要」なんじゃねと思えてきました。
「俺は不自由だ」というのもおかしいし、じゃあそもそも「自由だ」ってなんだ?学校に行かなくていいとか、会社に行かなくていいとか、そういうのが自由ですか。それは他人に何かやるべきことを課せられていないという意味では、たしかにそうかもしれないけど、ことさら強調することでしょうか?
ただ「労働しなくても良い」ってだけで、それに「自由」だなんだって意味をもたせないほうがいいんじゃないですかね。
なぜなら、社会の中で他人に課せられた時間を「自由じゃない時間」と認識せざるを得なくなると辛くなりません?
私はつらくなります。人の営みの中で、それが強制力をもったももや義務だとしても、仕事や勉強に取り組む時間だってだけで、「不自由」だとは限らない。
自由という言葉によって日々が面白くなくなるなら、捨てましょう自由。
私達は元来自由でもなければ不自由でもないのです。まあ、便宜上なにかを説明するのには使えそうだし、世間的に死語にならない限りは上手く使えばいいでしょう。そんな感じです。
※ロックやモンテスキューやカルヴァン主義の自由あと経済学におけるアダム・スミスやハイエクやフリードマンなんかも交えると面白くなってきそうですが、消化不足に至っているので今日はこの辺で終わります。
※無論、自由主義や自由民権運動というか民主主義を否定したいわけではありません。一個人が政治的な概念である自由を日ごろから意識しすぎるのは変では?という懐疑を持つことが”哲学”じゃないかね?と思った次第です。
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