「ざまあ」という言葉を使って良いシーンと悪いシーンがあるのはなぜなのだろう?という考察。
ちなみに、良いシーンの例でまっさきに思い浮かぶのがこれ↓
前田日明(まえだあきら)の「ざまあみろ、PRIDE」は名言。
動画で見たことがあるのは「ざまあみろって。まあ、因果応報ですよね。天網恢恢疎にして漏らさずって老子の言葉があったけど、その通りじゃない。天は悪いことを見逃さない。絶対に罰を与える。その通りですよ。」日本人?には嫌われている人だが(前田日明も帰化したから日本人だが)、私はこのセリフが好きだ。
どこかで、不正が暴かれて、胸が透く想いがした時、一字一句真似をして言ってやりたい。
このような不正が暴かれた状態。絶対的な正義を確信できた時、ほら見てみやがれ「様(ざま)を見てみろ」と挑発した言い方をする使い方はいいのだが、これを競争の場で上位のものが下位のものに言うとなると話は別になる。
優秀な人ほど謙虚であるべきだ、などという教訓を強要するつもりはないが、そうはせずにあえて上から目線で突き放すことに、直感的に吐き気を及ぼすのだが、私だけではないはずだ。
少なくともスポーツマンシップの世界では否定される。
例えば、徒競走で、1位の人が転んで、2位の位置にいた人が追い抜いてゴールインして、振り向いて「ざまあ!」という態度をしたらブーイングものだと思います。
しかしその「ざまあ」を歌詞に含めちゃった歌がこちら「可愛くてごめん」
まあ別に陰キャは優しいわけでもましてや聖人君子ではないしそうであるべきわけでもない。
…したくてそうしているわけじゃない、捻くれて言ってしまえば、自分でも捻くれていると自覚をしていることのほうが多い。
所詮、社会は弱肉強食でマウントの取り合い競争社会にすぎないのかもしれない。
この曲に「ざまあ」という締め?のセリフはいらなかったのではと思う…ここでいきなり謳っている人の印象が悪くなる。
いきなりいままでの流れからギャップが生じてしまう。
でも、ここからが私が本当に言いたいことなのだが、この歌を不快だと思う人は、歌に理想を込めたいだけ。
つまるところアイドルをもとめているから不快に感じるわけで、自分の歌として本心だしてしまえば「ざまあ」という気持ちがある。
という視点もある。「うっせえわ」も10代から20代前半の人の視点で歌われているので、たんにそれらがわからないのは聞いている人がその世代の心をわからないだけだ。
岡田斗司夫がこのようなことを言っている。
中年男性が「若いものはけしからん論」を言ったり「若いものはダマされるな論」言ったりするのはマーケティングとしては同室で嘘だったり大げさなものでくだらない。「若いものはけしからん論」は同じ40~60代をターゲットに情報発信をしていて「若いものはダマされるな論」は同じ10~30代をターゲットに情報発信をしているだけ。
あーなるほど。私も世代的には中年男性だから「若いものはけしからん」とまでは思わないけど「若いものの考えていることはようわからん」ことはあるわけで、それを「けしからん」と思うところまでは昇華できないけれど、「けしからん論」を見せられて満足してしまったらそれはマーケティングのターゲットとして櫛で絡め取られたノミみたいなものだと思ったほうがいい。逆に誰にも頼まれておらず仕事でもないのに「若いものは騙されるな」と語るのも胡散臭い。
…で、ここからが私がさらに言いたいことなのだが。
良い年齢した大人(男性らしい)がSNSで「可愛くてごめん」の「ざまあ」のイメージを貼り付けていたのを見て寒気がした。
若い人の心を歌から知るまではいいが、自分のものとして使うのは無理があるし、おなじ「ざまあ」でも使うシーンを間違えると違和感しかないので安易に使用しないこと。
と、反面教師的に思う出来事があった。
コメント