システム開発や運用では、属人性を排除するのが望ましいと言われている。
しかし、すべてのビジネス上の問題解決を標準化/標準的にしたやり方で行うというのは、果たして本当に効率がいいと言えるのだろうか?…という疑問が残る。人員を交換可能にするという思想は、交換可能な人材しかいない世界に過ぎない。
少なくとも解決困難な問題に立ち向かうという面白みはあまりない。
解決困難な問題は個人の脳力を総結集して立ち向かうものであって、きわめて属人的なものになるのではないだろうか?だいたいやり方が決まっているならば、そのへんのことを考えたり適した人を配置してコントロールするなんていうことが不要になりますけど。そんな組織あるんでしょうか。敷かれたレールの上に乗って済む問題なら、自分が取り組まなくていい気がしてきてしまいます。
属人性の排除とは即ち(最終的には)標準化されたマニュアル化された世界線ではないだろうか。
最低限のルールは決まっているが、やり方の中身までは問わないなんて都合のいい言われ方をされるだけの、無味無臭のふりをした得体の分からない何か、ではないか。その靄の先にいるものは、時に天使にも見えるし悪魔にも見えなくもないだろうか。(私には悪魔に見えるんですが。。。)そういった靄の中にいたら気がついたら最終的には自分の労働の価値が下げられる方向にしか向かわないのではないだろうか?
別に昔のシステム屋?がやっていたような俺にしか分からないシステムを作って誰も踏み入れられない神聖領域化(他人からしたらブラックボックス化)したいわけではけしてないのですが…属人性なるものを排除した企業は、より創造的な仕事をして効率的に稼ぐという理念は叶えられるのかもしれないが、その組織の人材流動性は高まる中で個々の労働者は、極めて不利だよなあと私は思わざるを得ないわけです。
要職につくものは栄えるが、属人性の排除で自分の仕事を失う人が出てくるだろう。まあ、それを自分本来の仕事なんて言うのは誤りだから”自己疎外”なんていい方は的を射ていないと自分でも思う。しかし、自分の仕事だと思っていたものが、あっという間に自分の仕事ではなくなってしまう…なんてことが、ITという変化が激しい仕事をしていると往々にしてよくある気がしている。
まあ、なにがいいたいのか?と言われると「属人性の排除」ってまったくテンション上がらないなあ。
全集中で取り組む神話にしては「動機が弱い」スローガンだな。
何をやってもいい方法は問わない…つまり属人的でもいいから成功させろ!の方がテンションが上がるスローガンだよな。
…という話です。はい。無料野口です(ただの愚痴)です。
探してみると属人性の排除を必ずしも良いことと捉えない例はあるようです「属人性を排除しないことで、創造性を発揮して働く会社【連載】遊ぶように働く〜管理職のいない組織の作り方(16)|FINDERS」「「システム開発で属人性を排除したらダメ」、有名ITアーキテクトが指摘 | 日経クロステック(xTECH)」
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