例えばですが、リクルートに新卒で入社する人が江副浩正(えぞえひろまさ)を知らないなんてことがあり得る話なんだろうか?
いや…ありえるだろう。昔はやった本を読む機会など、与えられないのだから、当然だろう。。。
子どもに「お茶はティーパックでいれて飲む」と教えたが、正しくは「ティーバッグ」だった。
ティーパックは女性用の下着とか水着のほうだ(汗)
いや、それも恥ずかしいが「お茶は急須でいれるもの」だという感覚ももはや無いだろう。
「ティーパッグのお茶で失礼します」「ティーパッグのお茶ですみません」と言われたことがある。
お茶は急須で淹れるもんだ!と怒るお義母さんでもいたんでしょうか。
新しいものが古いものの延長に在るということを、年寄は強調したがるんじゃないか。
それを教養だとか言ってみたりする。
それぐらいならまだいいが、それを知らぬものに無理に押し付けだしたらイケてない。粋じゃない。
現代のやり方から、何も無意味に過去へ戻るべきだという発言は厳に謹んで控えるべきだ。
もし、そうさせたいのならば、自然にそのようにしむける表現方法をとった時にのみ功を奏するだろう。
懐古主義の表現はマーケティングであり表現に気を使わなければならないし、
またそれ自体がコンテンツなのだ。
通常は体験不可能なノスタルジーにあえて浸らせることで、
その受け手が感動したり知識そのものに実用性を感じたり、
気付きを得たりするようなものでなければいけないのではないか。
森剛という数学者は、伝統とは守ろうとせずとも守られるものを言う、みたいなことを言っていた。
そこまで自然に割り切らずとも、守りたいものがある場合、それが持続的に守られる仕組みをこしらえる。
そうする必要があるのではないか。守っていかねばならないのではなく、自然と守られる状態にしておく。
そうでないといつか朽ちる…朽ちるものは不自然だからだ。これは、考えだすと非常に難しい。
コメント