戯言。言葉は嘘をつく道具でも全てが嘘になるわけではない。

徒然草2.0

結論から言えば、言葉は理屈を述べる道具であり、その真偽の程はさほど重要じゃないのかも。

…ようは、感情を表現したり、ルールに沿って使われるってだけの文字や音声。

おおよそ事物の問題を表現するのに言葉は使えるわけだけど、ただ感情の作用に一定の理由があり、それが常に言葉になりうるかと言われれば…私自身はあまり言葉を信用していない。言葉というのは嘘をつく道具だと誰かが言ったらしい。私が知っている人では『赤と黒』を描いたスタンダールという作家が言ったらしいけれど、諸説合って誰が使ったのか分からないが、的を得た言い方だと思う。嘘を言えば大げさだが、例えば相手のためを思って優しい言葉にするとかいう些細なことも、言ってしまえば一種の嘘みたいなもの。釈迦の方便もその類なのかも。本当は思ってもいないことを形にしたり、その場を和ましたりするのも一種の作用を期待している薬みたいなもの。相手を巻き込んで共犯関係を構築するために、みんなである人の悪口を言う…それが事実かどうかなんかいい。その場にいるみんながそれとなく納得して、そう思えるなら真になる…が、さほど深い意味のない…という意味では、虚構の類い。誰かがつこうとおもってつかれたものではないので、これもまた広義の嘘のようなものではないだろうか、とか思っている節がある。

もし嘘に定義があるとすれば無意識的なものではなく、能動的に騙そうとする言葉が嘘なのであって、ただの間違いは嘘ではない…が人によってはすべてひっくるめて嘘だと言う。ここでは前者の広義の嘘を採用する。そうすると言葉で語られうるすべての出来事や事物については、本当か嘘かだけに分類される…となると、どうだろう?本当以外のものはすべて嘘だと分類するならば、世の中の言葉がどれだけ嘘なのだろうか。創作活動や小説のたぐいも、書かれた何もかも…ニュースや新聞はもちろん、描いている者の主観でしかない。それを読者が解釈して都合のいいように歪める。この繰り返し(嘘の再解釈は嘘を量産することはあっても本物を量産しないだろう)で、事実や本物など一体どれだけあるのだろうか。明らかに言葉によって表現される本物と嘘の比率は嘘のほうが過半数はゆうに越えていくだろう。私の感覚では1%の真実と99%の嘘くらい。極端を言えば本物は限りなくゼロに近い。

この世は嘘だらけ。でも、それが良いとか悪いとかはどうでもいい。それが、ただ言葉の本質っていうだけだ。

しかし、私たちは誤認しがちだ。その言葉の性質を…言葉こそが人間たらしめるものだとかいい出したりする。人間ってやつはそう思い込みたい生き物らしい。正義なき力が無力であるように、力なき正義もまた無力であるじゃないけれど…言葉が力の本質であるとか、神様そのものを顕すなどとか、形而上の至高なモノだと錯覚する。ロゴスのイデアだの、言葉には責任が伴うだの、オトナのふりした”他人”が偉そうにのたまう。言葉で自分を縛り付け、他人を拘束する事を、文明などと野蛮な事を言い出す。人間は考える葦であるとかいい出したら末期。ちなみに他人とは、他者性という意味では自分の中にあるもので、自分と他人を意味する。自分は自分に嘘をつく。

…でも、私たちは少なくとも私はその仕組みに乗っかってどうにか生きていて、それは99%の嘘の中に1%の真実があるからなのか、そんな大げさなものではないが混沌な状態よりも言葉があるほうがずっとマシだと確信している。99%の嘘の中で、自分にとってマシなものを取捨選択して、どうにか今日を生きている。大量の嘘をつきながら、ありもしない真実を嘘で再生産しながら。

フェイクな情報を五感で取り込んで、身体反応を生命の躍動に変えて、それについてエネルギーなどと分かったようなことを言う。

永遠の嘘をついてくれ。襤褸が出ない嘘をついてくれ。嘘でもいいが嘘だと分からない本物を見せてくれ。

確かなものだけ探してみるとどうなるか。少なくともその本物は言葉じゃあないだろう。であれば、どう定義されるのか。でも定義が言葉である以上は表現が無理なんじゃなかろうか。

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