「寛容なドメスティックバイオレンス」という言葉についての考察

「generous with domestic violence」かな、英語にすると。それともwithよりofのほうがいいのかな。

ちなみに、これは、ただの言葉遊びです。

ドメスティック・バイオレンスの反対は「寛容さ」があることなんじゃないかなと思ったので、矛盾した言葉を作りたがる傾向がある私の頭の中に「ふっ」と湧いたもの。

ドメスティック・バイオレンス、略してDVは日本語では家庭内暴力という。

人間が暴力を振るうシーンは路上の喧嘩でも過程内の暴力でも必ず理由がある。

その理由は大きく分けて2つに分けられると思う。

二種類の暴力

1つは、逃避や抵抗のために足掻く行為。これをAと呼ぶことにする。

2つは、強制力のために相手に強いる行為。これをBと呼ぶことにする。

たまにAにもBにも属さないように見える非常に衝動的で解釈し難い暴力もある。

また、この2つを分けたからといって、例えばどちらが凄惨か否かを判断することはできない。ただ、このAかBのどちらかだと私は考えるようにしている。そうすると、事実を見誤りにくいことが多いと思う。また、どちらの暴力も同じカッコでくくって同じものに位置づけてしまうと、おかしなことになりがちな気がする。

女性に多いのだが「暴力はすべてダメ」という考えに直結しており、AとBについての見解がまったくない者がいる。あらゆる暴力は反対で、それを分けて考えるという観点がないのかもしれない。そういうひとは話が通じないので、非常に関わりしづらい(個人的な感想)。たぶん、私の言っていることはまったく分からないと思う。

ちなみに女性に多いと言ったが、匿名掲示板などで「女のビンタは100回やっても障害事件にならないが、男のワンパンは1回で障害事件になる(だから不公平だよね)」というようなトーンで書いている男も結構いる。不平等さが問題になる今日、誰にも届かない事実としての吐露なのかもしれないが、こういう人はAとBの区別を意識的に無視しているのではないか。もしくは、前者がAの暴力で、後者がBの暴力だと、本当に分かっていない可能性も疑わしい。

このAとBの区別は、社会も黙認している。警察が家庭内で「ビンタを100回した女」を逮捕しないのは、家庭内であって赤の他人ではないから、というわけではない。路上で知らぬ人にビンタしたら、男とか女に関係なく1発で御用になるということから言えば間違ってはいないが、それは法的な解釈に過ぎず本質は異なる。例えば、家庭内暴力において、女性が男性にする暴力は一般にDVとは呼ばれにくい傾向がある。女性による暴力がAに位置づけられる暴力と解釈されるためだと思われる。しかし、B的な暴力がある場合もある(極端な例だが尼崎事件など)。

一方で男性が女性にする暴力は、ほとんどBに位置づけられる場合が多い。相手を物理的かつ精神的に自分の思い通りに動いて欲しいという意図があるというこt。たまに箍が外れて限度を知らぬと相手を死に至らしめる問題が表へ出てくる。

暴力の反対は寛容?

では、暴力をしないことが寛容なのだろうか?

暴力の代替手段としての非暴力という手段もある。家庭内暴力ではなく国家間の対立なので大きく飛躍した話になってしまうが、マハトマ・ガンジーの場合は非暴力が抵抗の手段だった。ガンジーの場合はイギリスに対する戦いなので容赦はなく寛容さなんか持ち合わせていない。一種の抵抗であり、むしろ、これはパッシブな制御でもあるため、AとBの2つの性質を併せ持った非暴力ということになる。この辺は深く踏み込むとガンジーの伝記ができそうなので立ち入らないでおく。

仕返しと言うより正当な仕組みというか手続きによるものだが、昨今に熟年離婚が増えた背景には2007年4月に年金の分割が認められたから。一緒に生活したくない配偶者と分かれやすくなった。今は労働市場が変わってきているとは言え、仕事をして独立し難い女性のほうも結婚生活に耐える必要は少なくなってきている。

暴力をする制御ことを家庭への責任と考えるひとも少なからずいる。つまり、程度問題だと考えている人もいる。家庭を制御をしなくなるのは、一種の放棄にあたる。これは制御とは真逆の働きである。

言うことを聞かない子どもを叱るのに、ムチをつかう家庭があると聞いたことがある。宗教団体「エホバの証人」に所属をする人たちは、子供に対して鞭や棒で叩くのだそうだ。わたしからすると信じられないが、彼らは彼らが考える「良い教育」の為に鞭や棒を使うのだろう。

つまり、寛容さとは暴力と必ずしも対局にあるわけではないということが。

英語で寛容さを調べてみると、generousという言葉が出てくる。寛容の他に思いやりという意味があるようだ。相手のために寛容であるということだ。寛容という言葉をweblioで調べてみるとtoleranceという言葉がでてくる。これは許容や耐性と言う意味もある。寛容さは忍耐という意味が付随することもある。限度を超えると何が起こるかわからないのが寛容ということ。

私は自分で寛容だと思ったことがないというと嘘になるが、言葉としては便利でたまに使っている気もする。しかし多くの場合「私の寛容さ」とは面倒に関わらないという意味であって、これは「放棄に近い」と思うこともある。自由を身勝手と解釈することと同じような意味の取り違えをしてしまうと、おかしなことになる。それゆえ暴力による統御も必要だなどというつもりもない。暴力による抑制は極力ないことが望ましい。

暴力はする側もされる側も、ある意味でなにかに耐えていることがあるが、耐えるということがだいたいパフォーマンスが悪いものだ。そんなわけで、寛容なドメスティックバイオレンスというものは、存在するかと言うとこれがどうやら難しそうだ。そんなことが、分からなかったような分からなかった気がする。

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