キリスト教の預言者ニーチェ

徒然草2.0

ニーチェ「私が物語るのは次の二世紀の歴史である(中略)すなわちニヒリズムの到来を書き記す」

…というわけで、混迷の2世紀の真っ只中。預言者ニーチェの大予言は当たった!

こんな腐った世の中を生きるなんて、イヤダヨー…なんて言って見てもしょうがないですが。

「赤と青のどちらが好きか?」と問われ、それに対して「赤が好きだ」とか「青が好きだ」とか、回答ができるのは”色”という概念を共有しているからである。

同様に「神が死んだ」と言えるのは、神とは何かを問いその概念を共有しているからである。

キリスト教を痛烈に批判をして頭を悩ませることもまた、キリスト教者に共通の行いだろう。

「キリスト教とはなにか?」と問いかける時点で、その人は極めてキリスト教的である。

無知蒙昧にただ「有り難いもの」として利益を得ようと思っている俗人よりも、ずっとアンチを標榜して批判をするほうが、それそのものを正しく理解していることにならないだろうか…キリスト教を批判すればそこいらのキリスト教徒のよりもキリスト教に詳しいに違いない。

傍から見れば信仰に篤いキリスト教徒と変わらない。

あることを正そうとして染まるのも、あることを反して染まるのもあまり変わらない、ということだ。

ことキリスト教は、反骨精神のあるルサンチマンをエネルギーにした宗教であるからして、アンチほど熱心な信徒になりがちである。

…いや「キリスト教の預言者ニーチェ」というのは、それはいささか暴論であり、超人を志向した(つもりはニーチェにはないかもしれないが)から、ニーチェは頭がイカれたのだ(キリスト教と自分の素の思想を切り離していた)と言われれば、確かに私の表題にあるとおりの主張「キリスト教の預言者ニーチェ」は無理筋なのかもしれない。

まあ、別にそのへんの反論がもしあれば、分からないというか「あなたの感想ですよね?」っていうことにしています。上記に書かれていることもまた「私の感想です」。

そんなわけで、パウロしかりキリスト教を批判していたものが熱心な信者になる例は、12使徒しかりたくさん有るわけで「ニーチェはキリスト教の預言者」みたいな人だと解釈するのは当たらずとも遠からずって感じなんじゃないかなあと私は思うわけです。

いずれにせよニーチェに関する本を読めば読むほどキリスト教の概念に染まっていく自分がいるわけで、私にとってニーチェはキリスト教の神の言葉を伝えるために現れた者すなわち、預言者としか言えないわけです。神の言葉を伝える預言者が「神は死んだ」と言うのはまたおかしい話ですが(苦笑)

そんなことをふと考えたので、取り敢えず言語化してみました。

預言者gomiryoより。(余計なことを言った気がする)

徒然草2.0
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