聞き分けの良い大人たち

徒然草2.0

組織の中で価値観を同じにするということは退屈だったりストレスだったりすることがある。そういうものを強いてくる特定の組織から離れて生きることが推奨されている世の中になってきている。いや推奨というより、昔はそういうものに従わざるを得なかったのが、離れて生きることに可もなく不可もない時代に少しずつなってきている…とでも言うべきことなのかもしれない。

自由であれば、それが至上だと思う。

しかし、その一方で、、、例えば、教育とかその背後にある知識というものは、他者に同質化を求めるものも少なくない。そういったものが皆無であることが望ましいと思う一方、社会が成り立っているなどと言い切れるようなリバタリアンになるのも、ある種の別の軋轢が生まれるのを承知しなければならないので難しい。

そんな困難な戦いに身を投じるのも、おかしな話だ。自由のために戦うことはあってもいいが、真剣にやりすぎると、戦うために自由を求める感じになってしまうのではないかと思う。戦いが好きならもっと面白い陣営に属していたほうがいいに決まっている。

執着に近いものがないと、そういう真の自由主義者には人にはなれない時代だと思う。そういう人は目指すものでもない。そう見える人はいるかもしれないが、結果そうなっただけであって、目指してなったわけではないと思う。

自由を得る方法は、自分のものの見方を変えるとわりかし簡単だったりする可能性もある。

多くの大人はどうしているのだろうか。多くの気の利いた大人は、自分なりの「折衷案」を携えて、世を渡っているんだと私は思っている。大人はみんな「僕は中立だ」とか「僕は保守より」だと、いいはじめる。そういう退屈な「聞き分けの良い大人たち」の間で、同じ価値観とか違う価値観とかをぶつけ合って、自分の価値観と異なる相手の価値観を見つけてちょうどいい距離感を掴んで関わっていく。彼らは、ぼくはどうやらこの人とは仲良くできないらしい、などと言ったりもする。

自分の場合は、どこの立ち位置がいいのか悩んでおり、安定していない。

不安を抱えた若い人がいると、不安のまま突き進めといいたくなる。

そして、彼らには不安を常に忘れずに持ち続けて「聞き分けの良い大人たち」にはならないで欲しいと思っていたりする。

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