後漢の光武帝から印を授かった50年後、倭国王「帥升(すいしょう)」は生口(せいこう)(=奴隷)160人を後漢の皇帝へ献上した。
邪馬台国に卑弥呼が現れた。邪馬台国は狗奴国と争いをしていたが中国大陸の魏に使いを送り後ろ盾になってもらった。卑弥呼が亡くなった後に争いが耐えなかったが、十三歳の伊予という少女が女王になって国は治まったという。「魏志」倭人伝に卑弥呼のことが書かれている。卑弥呼がいた邪馬台国は奈良県の畿内大和説や福岡県の北九州説など諸説ある。
魏から金印をもらった。筑前国(福岡県)の田んぼから見つかった。漢倭奴国王(かんのわのなのこくおう)という5文字が書かれていた。大阪府和泉市の黄金塚古墳から出土した銅鏡は中国から卑弥呼へ伝わった。
邪馬台国は連合政権で様々な豪族が集まって国としてまとまっており、その中心になった豪族が皇室の祖先と言われている。
4世紀ごろになると奈良盆地に大和朝廷という天皇中心の国が作られた。
古墳は豪族の墓であり、棺の他に鏡や剣や玉、鉄製の農具や工具などが納められていた。時代を経て巨大化し大和地方を中心とした畿内に前方後円墳が作られた。古墳の周りには埴輪が並べられた。日本最大の古墳は大仙陵古墳である。権威の象徴として巨大化したが古墳時代後期になるとコンパクトなファミリー用の古墳になり横から新たに遺体を追加できる横穴式石室が用いられた(それ以前の古墳は竪穴式石室で、土を被せたら遺体を追加できなかった)また、小規模な古墳が集まったものを、群集墳(ぐんしゅうふん)という。
弥生人はこしきと呼ばれるせいろで米を蒸して食べていた。もみを落とした玄米は蒸すのに適していた。蒸した米を「飯(いい)」という。今のごはんは「粥(かゆ)」といった。
山口県の土井ヶ浜遺跡から体に矢じりが残された男の人骨が発掘された。武器として弓矢が利用されていた。
稲を刈るのに三日月型の磨製石器である石包丁が使われていた。石包丁にはいくつか穴が空いている。紐を通して手に結びつけるように使用されていたと考えられている。穂先を手で摘みとる穂首刈りで収穫されていた。当初は低湿地の湿田で稲を育てていたが水のない土地に水路を引いた乾田で稲を育てるようになった。弥生時代の後期に稲を育成して植え付ける田植えが始まった。
銅鐸が造られた。農耕の様子が側面に描かれていることから祭事に使用された。
紀元前100年ごろには鉄器や青銅器が伝わった。
弥生時代の中期には佐賀県の吉野ケ里遺跡や奈良県の唐古・鍵遺跡などの大規模な環壕集落が登場した。(環壕集落とは倉庫や住居を濠や土塁で囲った集落のこと)大規模な集落は小規模な集落を従えて「クニ」と呼ばれる政治的まとまりを作った。この様子が前漢王朝の歴史書『漢書』地理志に「倭」として記述されている。
朝鮮半島には高句麗(こうくり)、新羅(しらぎ)、百済(くだら)、加耶(かや)という国々があった。加耶は小国の集まりで日本が強い影響力を持っていた。また次に百済と良好な関係を築いていた。高句麗とヤマト政権は朝鮮半島で交戦した記録もある。
ヤマト政権には倭の五王(わのごおう)がいた。『宋書』倭国伝に記述があり讃(さん)、珍(ちん)、斉(さい)、興(こう)、武(ぶ)という。武王は雄略天皇(ゆうりゃくてんのう)=ワカタケルだと言われている。ヤマト政権の王は南朝へ貢物を送り、臣下の礼をとり称号や地位をもらった。また渡来人を日本に招いて大陸の文化や技術を取り入れた。
ヤマト政権は豪族の統治に氏姓制度(しせいせいど)を用いた。豪族に氏(うじ)という血縁グループに姓(かばね)という地位や政権内の役割を意味する言葉を用いた。
奈良時代
天皇の血筋から少し離れた継体天皇が即位。朝鮮半島では北方の高句麗が力を増し、ヤマト政権の影響力が強い伽耶諸国が滅ぼされようとしていたため新羅への出兵をしようとしたが、筑紫国の豪族である磐井にが反対して反乱を起こす(磐井の乱)。継体天皇は兵を送って磐井を滅ぼした。
- 中国の歴史
- 南朝の陳が随に滅ぼされる。(589年)
- 随が中国を統一する。(581年)
- 高句麗に随が遠征(周辺諸国に影響を及ぼす)
継体天皇の後に欽明天皇が即位。有力な豪族の大伴金村(おおともかねむら)が朝鮮半島における影響力低下の原因を作ったとされ失脚する。
仏教が伝来し仏教推進派の蘇我氏と仏教否定派の物部氏と対立する。蘇我稲目(そがのいなめ)とそれに反対する物部尾輿(もののべおこし)や中臣氏との争いが起きる。(蘇我稲目は蘇我馬子の父である)
その後、何度か天皇が変わり皇位継承問題で蘇我馬子(そがのうまこ)が挙兵し物部守屋(もののべもりや)を滅ぼす(587年)。
馬子は崇峻天皇(すしゅんてんのう)を即位させる。その後、馬子は崇峻天皇と意見が対立し暗殺する(592年)。
馬子は姪であり敏達天皇(だびつてんのう)の皇后・推古天皇(すいこてんのう)を即位させて権力を握る。推古天皇は甥の厩戸王(うまやとおう)(=聖徳太子)に補佐をさせて、蘇我馬子と政治を行う。
- ヤマト政権中央で朝廷の政治組織が整う(6世紀頃)
- 大夫(まえつきみ)による合議制で政治が行われる。
- 品部の組織が整えられる。
- 大連の物部氏と大臣の蘇我氏が対立しはじめる。
蘇我一族は豪族の縄張り争いを無くすため、豪族組織から官僚組織へ近づける2つの政策を行った。1つは冠位十二階(かんいじゅうにかい)で、これまで豪族グループごとに地位と役割を与えていた氏姓制度を改め個人の能力に応じて「冠位」を与えた。もう1つは憲法十七条で、天皇の権威を絶対的なものとして官僚としての心構え・道徳的な規範を説いた。聖徳太子と馬子は『天皇記』『国記』などの歴史書を編纂する。百済僧・観勒(かんろく)が歴法や天文地理の書を日本にもたらし、これにより毎月の記録が行われるようになった。
飛鳥文化
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